皆さんは手品を、もちろん趣味として大いに楽しんでいるのだと思いますが、それでも時折、つらく感じる事はないでしょうか。練習しても技法が上手くならない、不思議な見せ方ができない、オリジナルな手品が作れない。私がそうです。周りが上手すぎてつらいです。かといって、周りの彼ら以上に努力するような根性もありません。
……それでいながら、コミュニティに承認して貰いたい、初めて合う人からも「あの××さんですか!」と敬意の目で見られたい、そんな欲求だけは人一倍に持っています。
ああ、ろくに労力を掛けずそれでいて名声を得たい。ある日ふっと才能が開花したり、夢のようなアイディアが降ってきて、マニアも殺せるシグネチャー・エフェクト(※)がさくっと作れたりしねえものか。これは私の様に怠惰な人間が抱きがちな妄想で、宝籤を当てたいとか油田が欲しいというのと同じで、現実になることはまずありません。しかしここに、ひとつの抜け道があります。それが洋書翻訳です。筆者は手品的な実績も知名度もほぼゼロですが、ひょんな事から参加したある手品の集まりで「実は××を訳したのが私です」と明かすことによって、一切手品をしていないのに、並み居るマニア達から満場の拍手を受けた事があります。
もちろん何の労力もいらないというわけではありません。ですが翻訳は、創造力の必要な他の分野と違って、労力を掛ければ書けた分だけ確実に進むという大きな利点があり、費用対効果がずばぬけて高い、言うならばうまい話なのです。私は既に多くの本を訳し、もう十分に名声を得ましたので、皆様には無料でその秘密をお教えします。
さあ、貴方も作りましょう。シグネチャー訳業を!
(※シグネチャー・エフェクト その人の代名詞的な手順のこと。一級品の現象であることは勿論、演者と不可分に結びついており、まともな心のある人だったら恥ずかしくて自分のレパートリーには入れられないような手順です)
という書き出しだけを勢いに任せて書いた。
実はひとつ大きな嘘があって、「私は既に多くの本を訳し」という所は友人の話であって私にそのような実績はない。とはいえそれらの本の翻訳修正を割とかなり手伝ったりはしたので、完全に嘘というわけでもない。許して欲しい。
訳されてしかるべき本はそう多くはないのだが、今のペースではとても追いつかないので、なんとか他人をアジってその気にさせられないかという目論見であった。このあと、訳すべき本の選び方や値段の付け方、翻訳時の注意や手品英語の頻出フレーズの訳例なんかをそれらしく書いてマジケかideasにでも出そうかと思っていたのだが(※)、Alpha碁の成長スピードが予想を超えているとか、Googleの新しい翻訳アルゴリズムとカメラでのリアルタイム置き換えなどのニュースに相次いで触れ、シンギュラリティも間近って感じで暢気に書いていると賞味期限が切れてしまうと思ったのでここで公開する。
(※ 言葉のあやでこう書いてはいるが、心理的引きこもりなのでたぶん無理だったろう)
この後の内容はまだ全然練ってなかったんだけれど、せっかくなんで形だけ整えて公開します。
必要なスキル
実際のところ、英語力はそんなに要らない。たぶん。手品の洋書をそれなりに読めてれば大丈夫だと思います。英語力が足りなくても、ネットの辞書とか例文検索とかでかなり補えています。ただし辞書も使わなきゃただの紙束(パソコンも使わなきゃただの箱)ですんで、ちょっとでも気になったり引っかかりを覚えたりしたところを納得いくまで検索しまくるのが大事と思います。最近の手品本はスラングも割とあったりするのでUrban Dictionaryとか助かったりします(※)。
そうやって逐一調べてると無限に時間が掛かってしまうんですが、そこがアマチュアの利点ですんで時給換算とかはしない。金銭欲ではなく、あくまで名誉欲でやっておりますので、はい。
手品翻訳はマーケットが小さく、たぶんプロがやると採算が取れないんでしょう。だから東京堂のもやっつけ仕事は少なくないです。時間さえかければ、訳文のクオリティで上回る事は難しくはないです。
日本語力は要ります。
(※ wheyの意味とかも教えてくれます。乳清ではなかった)
本の選び方
色々と読んだ中から他人に教えたくないくらい面白かった本を訳すというのが有るべきスタイルだ、と知ってる人がのたまっていて、まあその通りなんでしょうが、そんな事しなくても世の中には訳されてしかるべきなのに訳されていない本というのが沢山あります。VernonとかAscanioとかElmsleyとか誰でも知ってる名前で、単巻で、短めの本が良いでしょう。ネームバリューだけで売れるし、訳すのも楽です。DarylとかCarneyとか狙い目だと思います。
洋書を読むに際しては「カードやコインは簡単」「メンタルや理論は難しい」みたいな意見も(妥当性はともかく)ありますが、翻訳に際しては、細かい操作を文章で説明しなきゃならないカードやコインは相当面倒くさい相手で、原理や演出でなんとかしてしまうやつのほうが楽です。エキボックや話芸(ジョーク)については、そもそも原理的に翻訳不可能な事が多く悩ましいです。
あえて言うまでもないですが、説明が上手い人の本は訳しやすく、説明が下手な人の本は訳すの大変です。あと文章が上手い人の文は訳すの非常に難しいです。
値段の付け方
時給換算すると完全に赤字ですが、商売自体は固く、そうそう赤字にはならないと思います。よくわからないものでもとりあえず買う、という奇特な方が手品界隈にはそれなりの数います。いるそうです。又聞きですが、どんなものでも200部くらいは売れるとか。さらに翻訳の場合は、訳者が無名でも原著者のネームバリューを利用できるんでだいぶ楽。
一般書籍はソフトカバーなら2000円くらい、ハードカバーで2000~3000円くらいが相場ですが、手品洋書はもともと$40~60くらいするので、為替も考慮してマニア相手で6000円くらいまでなら許容されるでしょう。このなかでうまく利益と費用のバランスを取らなくてはいけません。費用の大部分は版権料と印刷費です。ショップに卸す場合はその分も加味しないといけません。卸値はショップ売価の50~60%ぐらいと聞いたことがある気がしますがよく知りません。
版権料
版権者に尋ねましょう。海賊出版ダメ絶対。相場はよく知らないのですが、予定総売り上げの10~20%くらいでしょうか。定額の所もありますし、元々が自費出版だとタダ同然の事もあると聞きました。それから個人として交渉すると信頼がないのでやや辛めです。コネがあるところから頼むと端金で済むこともあるようです。うらやましいですね。
予定部数や売値などの情報はきちんと伝えたほうがよく、というのも向こうの人はこちらの市場の狭さをしらないので、数千部くらい刷るという想定で条件をふっかけてきたりします。
その他
結城浩氏の「数学文章作法 基礎編」「数学文章作法 推敲編」はおすすめです。
まあこんなところですか。
AIの成長スピードは凄くて、少なくともこういった技術書的な内容の素人翻訳は遠くない未来に機械に取られちゃうんだろうが、まあそれ自体はありがたい話です。それにまだあと数年は大丈夫と思うんで、皆さん思い出作りに一冊どうですか。逆に言えば、完全自動化される直前で翻訳アシスト機能が最高に充実してる時期ってことなんだし、いましかないっすよ。
おまけ:最近気をつけるようになったこと
・冠詞
In this trick, the card becomes invisible.
このトリックでは、カードが見えなくなります。
→このトリックでは、選ばれたカードが見えなくなります。
冠詞は難しくて全然わからんのですが、定冠詞theが付いている場合は、文脈に応じて「選ばれた」などで具体性を補った方が誤解の無い日本語になる場面も多いようです。不定冠詞aの時は、「1枚」や「なんでもいいので」を補ったりすることがあります。
・複数形
Take Aces.
エースを取れ。
→エースのパケットを取れ。
文脈次第で「残りの」「他3枚の」「パケット」とか補って複数感を出します。冠詞や複数形は日本語にないのでいつも困りますが、補いすぎるとモッサリしてしまうのでそれはそれで困りものです。
・語順あるいは代名詞と本体の距離
...he told me that the most important point of this trick is miscall. It’s….
ミスコールがこの手順で一番重要なのだと彼は教えてくれました。これは
→彼によれば、この手順で一番重要なのはミスコールなのだそうです。これは……
例が微妙ですが、英語と日本語は文法が違っているために、翻訳すると語順がけっこう変わります。ところが次の文が前の文末を受けていることがあって、そういうときは重要になる単語とそれを受ける次の文の距離を離さない方が、文章の繋がりが保たれて好ましい場合があります。
・台詞
“...and then all the faces of the other cards become blank”
「 ……そして、他のカードは表がみんなブランクになってしまいます」
→「 ……そして、他のカードは表がみんな真っ白になってしまいます」
気を抜くとやってしまいがち。手品のジャーゴンは地の文では使って良いが、観客に向けた台詞内では使ってはいけない。
・文量
It’s simple.
それは単純なことです。
→単純です。
日本語にすると主語とか文末とかでどうしても長くなりがちだけど、原文が短かったら日本語もスパッと短くする方がよいと思う。もちろん元が長かったら長く訳す。