アマガミという古い、しかし古びないゲームについて/トム・ジェームズ

 

 これは2018年1月28日にMediumに投稿されたTom James氏の"The Case for Amagami in 2018"を、氏の許可と監修のもと翻訳したものである。翻訳はおおむね愚直に行ったつもりだが、幾つかのパラグラフでは表現を大きく変えている。元記事は以下のURLから読むことができる。https://medium.com/@freelansations/the-case-for-amagami-in-2018-db8afe0244e0

 

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 少なくとも表面上、僕はこのゲームが想定しているプレイヤー像とは考えられる限りかけ離れている。2009年にPlayStation 2で発売されたこの恋愛シミュレーション・ゲームは、90年代後半の日本を、ある種のノスタルジックなものとして舞台に設定している。僕自身の人生経験とは、ほとんど共通するものがない。

 その時代、僕は日本にいなかったし、日本語を話してもいなかった。言うまでもないが、日本の高校に通ったこともない。アマガミの世界設定は、携帯電話さえまだ子供たちに普及しておらず、ビデオを買うといったら(普通のやつも、暖簾の向こうにあるやつも)まだVHSが主流だった時代だ。遊戯王が国中を湧かせた新作アニメだったし、日本はド派手に崩壊したバブルをやっと乗り越えたところだった。

 一方、僕が高校生をしていたのは2000年代後半のコロラドだ。ちょうど最初のiPhoneが発売され、Blu-rayがじわじわとDVDに取って代わろうとしていた。アニメだとNARUTO疾風伝のTV放送が始まったところで(これは前シリーズの倍の期間続くことになる)、また我々の金融システムの歪みが見え始めたところだ。とはいえリーマンショックにはまだ幾ばくかの間があった。もちろん共通するところは見つかるだろうけれど、喚起される特定の心象や時代について言えば、アマガミは僕の高校生活の思い出と噛み合うようには作られていない。このゲームの設定画面には、なんとまあ、サウンドをすべてPC-9800風のFMシンセ音源に切り替えられるスイッチまで用意されてるんだ。

 

  けれど、アマガミのプレイに100時間近くを費やし、多くのヒロインと親しくなって、たくさんのエンディングを解放する中で、10年も後のアメリカの高校生だった自分自身の体験が、幾度となく共鳴するのを感じた。アメリカの高校と日本の高校では、制服やクラス分け、そもそも学校生活に費やす総時間さえ違っているけれど、そこにはやっぱり『思春期』につきものの浮き沈みがあり、悲しみ、気まずさ、愉快さ、それにともかくなんとも言いようのないできごとで溢れている。

 アマガミは感傷的で郷愁的な作品だけれど、それは単に90年代の文化や情景を使ってこちらの記憶を突っつくという典型的な方法だけでなくて、もっと共感的な方法も用いる。アマガミは恐れることなく、率直に、堂々と、僕らみんながあの年頃に経験したことを扱う。良いことも、悪いことも。なんであれとてもリアルで、とても妥当に。プレイヤーは遠く過ぎ去ったあの頃の自分たちを思い出さざるを得ないだろう。

 輝日東高校の生徒は誰ひとり完璧ではないし、また誰ひとり完璧を望んでもいない。彼らはただ、自分のあり方へのささやかな肯定を求めている。自分の人生とその歩み方が、他の人とほとんど似通っていないように見えても、それでも大丈夫で、確かで、間違っていないのだと、少しでいいから認めてほしいと願っている。複雑なティーンエイジャーだった頃のあなたには、たぶん人生や成長について、言いたいことがたくさん、それも込み入って相反することがたくさんあっただろう。アマガミにはそのことに対する静かな理解がある。アマガミにおいて、それはいいことで、それのみが、あなたにできた正しく誠実なことなのだ。

 

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 この点を痛切に描いたシークエンスが序盤にある。可愛くて、けれど内気で、失敗を恐れている恵子と、もじゃもじゃ頭でお節介な薫が関わる序盤のサブ・プロットがそうだ(ふたりについては上のスクリーンショットを見てくれ)。恵子は同級生の男子に恋をしている。あるいは、少なくとも彼女自身はそう思っている。彼女の告白に対する彼の返答は、よく言っても薄っぺらで、彼女を宙ぶらりんの状態にした。悪く言えば、好意を利用して彼女を手軽な性の相手にしようとしたのだ。

 無理からぬことだけれど、可哀想な恵子はどうすればいいのかわからなくなって、彼とどう向き合えばいいのか、あなたにアドバイスを求めることになる。気持ちをしたためた手紙を渡して、態度をはっきりさせるよう彼に迫ればいいのでは、とあなたは提案するのだけれど、この計画は悲惨な結果に終わる。この男は彼女の手紙を友人たちの前で大声で読み上げ、内容をあざける。この事件はあきらかに恵子に傷跡を残した。いつか気持ちを切り替えて、ほんとうに自分を愛してくれる人を見つけるなんてことが、できるようになるだろうか、と彼女は疑う。いつも前向きで友人思いの薫は、男なんて星の数ほどいるんだからさ、と多くの大人のアマガミ・プレイヤーが言うだろうことを言うのだけれど、はじめて現実的な意味で異性に告白し、それがかくも痛ましい失敗に終わったことは、恵子に深い疑いを残す。自分には若い女性としての魅力があるのだろうか、自分を心から認めてくれる人を見つけることはできるのだろうかと。

 

 アマガミの全てのエピソードがこういった湿っぽい空気で終わるわけではないし、またここまで重大なことになるわけでもない(少なくとも短期的な視点では)。しかしいずれにせよ、アマガミにはプロットの糸をもっと簡単かつ急速に解消するのではなくて、登場人物たちに良いことも悪いことも自然に経験させたいという意志がある。それは彼らの未熟さ――いろいろな出来事が尻すぼみに終わったり恐ろしいほどの急転直下を迎えたりと目まぐるしく起こるこの時期につきものの――に対する、アマガミの直感的な理解を強調する。 

 輝日東高校の生徒たちは時に苦闘する。心を開こうとし、自分自身や自分の願望に誠実であろうとし、互いを尊重しようとする。けれどその先に何が待ちかまえているのか彼らには分からないし、さらには実際に飛び込んでみるまで、そもそも先が存在するかさえ知りようがない。それが彼らの足を竦ませもする。一般的な恋愛シミュレーションが単に可愛いパートナーを見つけそしてふたりはいつまでも幸せに、でやっていくのに対して、アマガミは勇気を見つけようとする物語だ。それは周囲の世界に対して、自分らしさを隠さず誠実に向き合おうとする勇気であり、それによって幸せな人生――不完全で歪な『わたし』のことを真摯に理解し、受け止めてくれる友人や伴侶を見つけ、また彼らと共に自分らしく生きること――のひと欠片でも手にしようと踏み出す勇気である。

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 キャラクターたちの、自分らしく生きようとし、自分自身を表現しようとする苦闘は、単にプロットの基点や主軸に留まらない。カドカワの学園恋愛シミュレーション・ゲームの正統でもある本作には、恋愛対象の少女たちとの偶発的な会話イベントが存在する。これはメイン・イベントのあらゆるシーンと同じく、彼女たちの心の動き方を鮮やかに描き出す。

  プレイヤーであるあなたは、彼女たちと9つの異なった話題でおしゃべりをする。彼女たちの好む話題は、彼女たちそれぞれの個性であったり、いまの会話のムードや、あなたがいま彼女とどういった関係性を築いているかで変わってくる。最初のころ、これらのおしゃべりはあまり実りのないものに思えるだろう。学校生活やクラブ活動のごく表面的な話とか、好物は何かとか、昨日の夜に観たTV番組とか、そういうちょっとした断片ばかりだ。しかしそれを続けていくと、すぐに、あなたは薫が、なんというかその、常にもじゃもじゃな外見に反して、ファッションに一家言あり、最新の流行にアンテナをはっていることを知るだろう。あるいは、あのやんちゃで変わり者のはるか(上のスクリーンショットを見てくれ)が、修学旅行の時に同室の女の子たちのいたずらでアダルト・チャンネルを見てしまったということを。ときにはメイン・プロットで起こった事件や、学校周辺での出来事が話題に上がることもあり、それらの出来事に連続性を与えもする。

 これらのおしゃべりイベントは、彼女たちの頭を占めている事柄についての情報がいつも得られる、というわけではないが、彼女たちが重大な問題に直面したときに取る態度や抱く不安を理解するのに必要な空白を埋めてくれる。そのために、これらの会話は本筋とはまったく無関係であってもなお、価値あるものに感じられるのだ。

 

via Gfycat

  しかし時として、語られず中空に漂っているものこそが、彼女たちが考えていることや、彼女たちの物事への対処の仕方について、より多くを明かしてくれる。キャラクターの立ち絵とダイアログ・ボックス、動きのない背景といったものを経て発展してきた多くの恋愛シミュレーションやビジュアル・ノベルと同様、アマガミも省エネ・アニメとでも呼ぶべきものを備えている。このアニメーションは極めて控えめな量ではあるが、既にして精妙なキャラクターに、秘やかな、しかし強力な新しいレイヤーを加えてくれる。

 とりわけ、その目だ。僕たちを惹きつける目。彼女たちが思いをうまく言葉にできないでいるとき、代わって雄弁に語る目。あなたと喋っているあいだにもあちこちを向き、時には確信をたたえてまっすぐにあなたの目を見つめ、また時には考えをまとめているように神経質にそっぽを向き、あるいは一度に何百もの考えが頭を巡っているかのごとくぱちぱちと激しく瞬く。

 目はほとんど話題に上ることがないが、このパズルにおける極めて重要なピースであり、性格描写という点について言えば、グラフィック、文章、声の演技とおなじ位置で評価されるべきものだ。ほかの3つの要素が、多くのこういったゲームにおいてキャラクターに最低限の命を吹き込むのに十分だとすれば、アマガミがその方程式に加えた、変化し、生き生きと動き、活発な目こそ、彼女たちに魂を与え、彼女たちをかくもチャーミングに、美しく、痛々しいほど人間的で、また親しみやすいものにしている。

 

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 こういった時として必死な、しかし常にひたむきな目は、アマガミが備えている武器の中でも最も強力なもののひとつで、ジェネレーション・ギャップを飛び越えて僕を僕自身の高校生活の歳月へと引き戻す。はるかが彼女なりの不器用でまごついたやりかたで、愛情を伝えようと柔らかな視線を僕に向け、目と目で戯れるとき、かつて教室で、離れた席の恋人と目を合わせて訳知りな笑顔を浮かべ、少しのあいだ互いに周囲を忘れて、二人だけの小さな世界に入ったことを思い出す。小柄で、柔らかな声で話す紗江が、――自分の考えを口に出すのが苦手で、おまけに男性慣れしていない彼女が、何を言えばいいか分からなくなり、目をあちこちに彷徨わせ、僕を真っ直ぐに見ようとはしなかったとき、僕は一緒の高校に通っていた、可愛くて、だけど同じように内気で、家の中での役割を決められ、望んでもいない未来へのレールを親に敷かれていた、あの友人たちの事を思い出す。薫が目を細め、顔を赤らめながらも、長いあいだ曖昧にしてきた自らの感情をはっきりさせようとして、これまでのふたりにとって自然な距離よりも近くに座ろうとしてきたとき、僕は僕自身がその歳だった頃、多くの女の子と友達として仲良くしながらも、彼女たちに抱いていたもっと深い感情をどれもうまく言葉に出来なくて、より深い関係を築くにはどうすればいいのかともがいていたことを思い出す。

  これらのシーンは時に僕をたじろがせる。それらが陳腐だからではなく、また過剰に感傷的だったりドラマチックに感じられるからでもなく、それらがあまりにも鋭く、僕自身の思春期の経験を捉えるからだ。僕があの頃しでかした恥ずかしい失敗や間違いを、否応なく思い出させるからだ。大人になった僕は、そういった苦難は成熟の一過程であり、彼女たちも最後にはそれらを乗り越えて成長するだろうことをよく理解している。それでもなお、彼女たちがそれらのシーンに直面したとき、僕は、彼女たちが苦しみや困難にさらされることなく、ただ幸せで平穏にあってほしいと心から願わずにいられない。

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 表向きのゴールこそ誰かと学校のクリスマス・パーティに行くことではあるけれど、アマガミというゲームは、なによりもまずその瞬間その瞬間に起こるこういった小さな交流によってかたちづくられている。交流というのは概して即興的なものであり、唐突で予期しない発見や、根拠のない信頼といったものを土台にして築かれていく。そしてついには、ふたつの魂が互いに理解し合おうとし、互いにそれぞれのやり方で成長しようとする特別な原動力にふくれあがる。

 だからこそ、アマガミでは本筋とあまり関わりのないイベントや会話がかくも胸に迫るし、ドラマチックなご褒美シーンに辿り着くために潰さなくてはならないノルマとは感じられない。この積み重ねが無かったとしたら――こういった巨視的にはまったくどうでもよく、けれど微視的には、つまり個人にとっては重大な、偶発的なヘマとか掛け替えのない一瞬といったものが無かったとしたら――アマガミの旅路が活き活きとして個性的な『誰か』と親しくなっていく冒険に感じられることはなく、常に気持ちよく、あるいは常に楽しくあれという義務感がうっすらと感じられる、ただのハイライト集の押し付けにしかならなかっただろう。

 アマガミの中で、特定のルートに沿ってあなたが最終的に取った道のりの、その結末は、あらかじめ定められていたものではあるのだろう。しかしそこに至るまでにあなたが出会い、行い、語った沢山のものごとは、プレイヤーであるあなたの選択の結果であり、あなたに積極的な参加を求め、また幸せな、満たされたエンディングに到るための種まきである。それぞれの少女について、語るべきこと見るべきことは実にたくさんあり、あなたはそのうちのいくつかを必ず見逃してしまう。しかしそれゆえに、あなたと彼女が辿った道のりの一歩一歩は、あなたと彼女だけのものであり、ふたりがうまく交流を育み、そしてふたりだけのやり方で、幸せな結末に至ったかのように感じられるのだ。

 

 僕はいつも、ある誕生日のシーンを思い出す。これは関係性描写に対するアマガミの哲学、『重大でないことの重大さ』を体現したシーンだ。ゲームの6週間という期間も終わりに近づいた頃、プレイヤー・キャラクターは17歳の誕生日を迎え、そしてもしあなたが女の子たちと十分に仲良くなっていたら、彼女たちから記念の誕生日プレゼントをもらうことができる。このプレゼントはゲーム内で特別な働きをするわけではないが、ゲームを始めてからあなたが築いてきた関係性を、はっきりと象徴するものではある。

  そういったシーンうち、はるかに関心を絞っていたときに発生するもののなかで、彼女はその日の夜にあなたの家を訪れる。玄関口で、来訪の目的について照れてはぐらかしたりとひとくさりイチャついた後、実は誕生日プレゼントを渡そうと思って、と彼女は明かす。プレゼントの包装を開けると、箸とレンゲが現れる(レンゲというのは、ラーメンなどの麺類でよく使われる、ひしゃくっぽいスプーンの日本での呼び名だ)。

 

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 アジア料理で育っていない西洋人の多くにとって、贈り物が食器というのはいささか素っ気なく思えるだろう。もちろん素晴らしい銀のカトラリーだって存在はするが、たとえ料理が趣味の相手にであっても、贈り物としてまず思い浮かぶたぐいのものではない。しかし日本やその他アジアの国々では、一組の箸というのは非常に個人的なものなのだ。シンプルでけばけばしいプラスチック製のものから、もっと厳粛で凝った作りの木製のものまで、様々に細部の異なるものが、広い価格帯にわたって存在している。ある人が家で普段使いする箸としてどんなものを選ぶかは、その人の背景や個性について多くを語りうるし、そのように個人を象徴するものであるために、箸は値段にかかわらず大切に扱われるだろう。

 

 はるかはゲームの中で、だいぶんお気楽なキャラクターとして描かれるけれども、僕が彼女のルートで、彼女とイチャつくなかで、この誕生日のシーンに出くわしたとき、僕はすぐに、彼女から箸をもらうことの重大さを感じ取った。とても多くの時間、ふたりでおしゃべりをし、一緒に楽しいトラブルに巻き込まれた後、彼女はいままさに、ふたりでいる時間が彼女にとってどういう意味を持つのかを、はっきり宣言する用意ができたのだ。そしてまた、僕の好みに合うだろう箸を贈ろうとするだけでなく、大胆にも、この贈り物をふたりの関係の記念品にし、僕がそれを使って食事をするたびに彼女を思い出すよう目論んだのだ。 

 彼女のこの大博打は、プレイヤーとしての僕の心を揺さぶっただけでなく、僕のとても大切な思い出を呼び覚ました。僕もおなじくらいの歳のころに、すてきな一膳の箸をもらったことがある。高校生活で多くの時間を一緒に過ごした女の子から。僕はその子が好きだった。いまでも鮮明に覚えているのだけれど、木製の格好いい黒い箸で、金の装飾がされた美しい青の布袋に収められていた。高校を卒業した後も、何年もその箸を使っていたし、彼女と音信不通になった後でさえ、箸は目論見通りの効果を発揮した。この思い出をアマガミ追体験したとき、僕は誇張ではなく、涙を流した。彼女の言葉、彼女の仕草はあまりに真摯で、胸を打ち、僕は抑えることのできない心地よい郷愁に圧倒された。

 

 その後このルートの中で、このシーンが明確に再言及される事はなかったけれど、このシーンが僕自身に及ぼした影響、そして僕がはるかとの交際を思い出すときの「まなざし」に及ぼした影響は消えることはなかった。そして、それはまったくいいことなのだ。それは僕がはるかと築いた不格好でけれど特別なものの端的な表れだ。僕が彼女と歩んできた道のりは、すべてが完璧とはいかなかった。とりわけ彼女に好意を抱き始めた最初の頃には、沢山のぎこちない躓きも経験した。でも僕らはそれらを乗り越えてきたし、そのためにより強く、より親密な関係を築くことができた。そして迎えた誕生日の、一膳の箸は、彼女もまた同じ気持ちでいることを伝えてくれる大切な贈り物なのだ。物語として見たとき、これはクライマックス期間の直前のちょっとした脱線だけれど、ふたりの人間がともに過ごしてきた時間や、成長し成熟しても相手の中に生き続ける自分のこと、そしてまだ起こっていないふたりの未来に対する期待、そういったものに思いを馳せる重要なターニング・ポイントになっている。

 

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ときめきメモリアルPCエンジン版)

 こういった、他のジャンルにはない独特な時間と感情の費やし方によって、アマガミのような純粋な恋愛シミュレーション、つまり単に別ジャンルのゲームに交流要素として切り詰めた会話システムを接ぎ木しただけのものではないゲームは実現している。しかしこの投資と報償のデザインは、ジャンルが生まれ、流行り廃りを経てひとつのジャンルとして(ニッチではあるが)確立されていくなかで大きく変化してきた。1994年にコナミときめきメモリアルが発売され、このジャンルの最初のブームが起こったとき、恋愛シミュレーションが主として確率とパラメータによって駆動されるゲームだったことは、それに先立つ10年間、日本のコンシューマ市場とPC市場では複雑なRPGと戦略ゲームが絶大な人気を誇っていたことを考えれば、とくだん驚くべきことではないだろう。伝説の樹の下で憧れの女の子から告白されるために、あなたは彼女から魅力的に見えるよう、特定のステータスを上げなくてはならないのだけれど、それぞれの行動によって別々のステータスが上がったり下がったりするので、目的を達成するには日々の予定を慎重に管理しなくてはならない。これは90年代、ジャンルが花開いた直後の後続作品たちでも、再び2000年代に、精神的な後継作であるラブプラスが出たときも同様だった。それぞれの作品を個性的にしているのは、必要に応じたビジュアル面でのマイナーチェンジと細部の調整であり、それで十分だったのだ。

 

 しかしながら、こういったオールド・スタイルの恋愛シミュレーションでよく用いられる公式には、皮肉な過ちがある。ステータス・ベースのRPGライクなシステム設計は、実際に人が他者との交わりの中で自らをよりよく変えていく際に進行していることを、何かしら再現していると言うことはできるだろう。しかしこのプロセスを明確な数値とゲージにまで煮詰めてしまうと、作品の最終的な結論、つまり交流(交際)とは何かというメッセージを、自己中心的で近視眼的なものにしてしまうリスクがある。

  相手が抱いている理想のパートナー像にあわせ、その通りに自身を構築していく限り、あなたは何の心配もなく、誰であれ好きな相手と恋仲になることができる。望む通りの物を彼女たちに贈り、望む通りの扱いをし、とりわけ望む通りに受け答えをする。決して脇道へ逸れることなく、彼女たちの心地よい領域から外れることなく、彼女たちに本当のあなたを知るチャンスを与えることなく。少なくともあなた達の交際が公認のものになり、ふたりが本当のカップルになるまでのあいだ、そこには諍いも不信も退屈もない。「しかし」もなく「もし」もないのだ。 

 いまTinderやデートサイトのプロフィール欄が、相手の興味を引くためだけのわざとらしい写真や綺麗ごとで埋め尽くされているのと同じように、日本の恋愛シミュレーション・ゲームにも相手の好きそうな物ばかりを(自分がそれを好きかどうかに全然関係なく)選ぶことで恋愛を成立させるというウンザリする時代があった。彼女は知的な男が好きらしいから『勉強』を上げよう。今度の彼女は……よし『芸術』を上げていこう。でもそれでは、お互いがどういう人間なのか、本当のことは全くわからないままだ。

 

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 村上春樹の『国境の南、太陽の西』の序盤で、主人公の始(はじめ)は高校の時のガールフレンド、イズミとの初めての性的体験の後でどのように感じたかを語る。『僕は今までよりもっとイズミのことを理解できたような気がしたし、彼女の方も同じ気持ちだっただろう。必要なのは小さな積み重ねだ。ただの言葉や約束だけではなく、小さな具体的な事実をひとつひとつ丁寧に積み重ねていくことによって、僕らは少しずつでも前に進んでいくことができるのだ。』 

 アマガミの、コナミ流の高校恋愛シミュレーションに対する静かなる反駁が、多くの、本当に多くのルートに散りばめられた小さな事実の集積に宿っている。アマガミにおける交流は、上がったり下がったりする一連のパラメータや、はっきりと示された理想像に到達するため戦略的に選択する授業科目や課外活動といったものでは捉えられない。アマガミの『それ』は、何気なく生まれた、仲間内だけで通じるちょっとしたジョークやお決まりの掛け合いだ。『それ』は互いに見つめあうときの仕草、交わすほほえみ、身構えなくていいと分かっているときに彼女たちの声に滲む心地よい響きだ。『それ』は人のするあらゆることだ。誰かに求められてではなく自然と行うこと、しかしときには誰かに頼まれて行うこと、日常的に行っていること、あるいは一生に一度きりのことだ。『それ』は外部の者にはほとんど関係のない個人的な成功や失敗の瞬間であり、誰も、何も、変えはしないのだけれど、それでもなお、あなた達ふたりにとっては――それを必要とするふたりにとってだけは、決定的な瞬間だ。

 

 アマガミは個人と個人の不安定な関係と、そこで起こる化学反応とダイナミズムに焦点を当てるという、恋愛シミュレーションとしてはとても困難な道を選択している。アマガミはその登場人物たち、つまりあなたとヒロインたちに欠陥をあたえる。僕たちも彼女たちも、しばしば間違いをおかすし、怒ったり悲しんだりするし、他人の言動を良いふうにも悪いふうにも誤解したりする。彼女たちは自分の不安やトラウマを打ち明ける。同ジャンルのほとんどゲームが、ほんの一瞬であれ『完璧なヒロイン』の虚像を崩すことでプレイヤーに敬遠される可能性を恐れ、やろうとしないレベルで。しかしアマガミは『完璧』を求めていない。他のゲームのヒロインのような『完璧』さではなく、あるルートに数十時間を費やすに値する『ひとりのひと』を描こうとしているのだ。

 物語の最後には、相互の容認が訪れる。すべてのねじれ、欠点、粗々しさがあらわにされ、それでいてなお、互いに大切に思える『ひと』をそこに見出すだろう。そうだ。あの頃のあなたも、悪いやつじゃなかったし、どころか素晴らしくさえあって、その人間性のゆえに愛すべき人間だった。そして、いまのあなたも。

 

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