ガルパン劇場版感想――プラウダ撤退

 ガールズ&パンツァー劇場版のプラウダ撤退のシーンがとても好きだ。初見時は(なぜこんなシリアス調に?)というツッコミ心が勝って没入できなかったのだけれど*1、2回目以降の視聴ではこのシーンで必ず泣いている。レトリックではなくマジで泣いている。

 あの撤退戦でプラウダは殿(しんがり)をつとめていて、中でもカチューシャは最後尾で粘る。それは最も危険な位置で、けれど彼女は誰かをトカゲの尻尾にしようとかいったことをしない。対大洗戦では(数の利があったとはいえ)あれだけ捨て石を使っていたのにだ。

 ひまわりの副隊長である彼女は、自分が最後尾にいることがいちばん目的に叶うと判断してそうしている。自分ならやり通せるという思い上がりや*2プラウダ隊長としての矜持もあったろう*3。しかしそれ以上に、最悪自分が脱落しても構わないと考えていたのではないか。指揮官ならみほがいるし、なによりダージリンがいる。エキシビジョン戦で楯になったことからもわかるように、カチューシャは自陣の勝利のためなら自らが捨て石になることを厭わないし、またダージリンの能力を高く買ってもいる。いまこの局面で、彼女にとってはひとりでも多くのプラウダ勢を撤退させることの方が大事だったのだ。そのほうがよりチームの勝利に貢献できると判断した。自分の代わりは居るが、隊員達はそうではない。彼女にとって、『プラウダ』とは『隊員の強さ』だった。

 でも、プラウダの他のみんなにとってはそうじゃなかったのだ。『プラウダ』とは『隊長の強さ』で、それは隊長以外のみんなにとっては自明のことだった。だから彼女たちは、敬愛する隊長の指示に背いてでもこれを表明しなければならなかった。

 あのシーンは、だから、とても僕の胸を打つ。

 カチューシャが「雪は黒い」と言えば、ためらいなく「黒い」と答える彼女たちが、それでもこの一点だけは譲ることができなかったのだ。そうしてカチューシャは隊員たちを、彼女にとっての『プラウダ』を失う。けれど、ほんとうの『プラウダ』は失われてなんていない。ダージリンも言っている。「まだあなたがいる」。そしてカチューシャは隊員たちの見立て通り(若干のもたつきはあったけれども)、素晴らしい指揮力を発揮する。単騎行動へ移った西住姉妹や、退場したダージリンに代わってその隊員たちをまとめあげ、大洗を勝利へと導くのだった。

 

*2018/04/10 ちょっとだけ修正。

*1:なおこの撤退シーンがやたらとシリアスになった一因としては、クラーラの日本語語彙が(堪能ではあるものの)極めて限定されたものだったのではという仮説がある。これは『日本人の知らない日本語』というコミック・エッセイで、任侠映画で日本語を覚えたやたら剣呑な語彙のフランス人がいたことから着想を得た。

*2:見てごらんなさい! 私には当たらないわよ!

*3:逃げるなんて隊長じゃないわ!