とても久しぶりに手品の動画を見た

のが去年(2023年)の末ぐらいだったのですが、折角なので感想を文字にしておこうかと思いました。見たのはFool Usです。Aleš Hrdličkaのリング・ジャグリング動画を見て、そこから関連で出てきたものをいくつか見ました。

 

 

 

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Aleš Hrdličkaのリング・ジャグリングはこれです。素晴らしいアクトで、特に言うことはありません。観客にとって十分に馴致(tame)された原理(たとえば重力や物の材質など)がうまいタイミングで裏切られて、気持ちよく騙されます。一時停止の誘惑に駆られると思いますが、そこは押し殺して、まずは通して見てほしいところ。繰り返しの再生に耐える不思議ではないのですが、そもそも手品じゃないのでそこは問題ではありません。いいアクトでした。生で見たら一生ものの思い出になったことでしょう。

 

 

 

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Stuart MacDonaldの、魔法の鏡に映した物が実際に倍になってしまう手順。こういった『タネが見え透いている手品』は、タネは分かるけれどそれでもおかしい、とならないと成立しません。たとえば検めが異常だとか、物量がおかしいとか、そのタネではあり得ない物体(安直な例では、燃えているものや液体、生き物など)が出てくるといったことです。そういった工夫がないので、この手順は成立していません。観客の想定するタネそのままです。同じ趣向で成立している例としては、ネチポレンコhttps://www.youtube.com/watch?v=VezPcS4r5Wsなんかを見ましょう。

『魔法の鏡』という物語にしたのも弱い。Paul HarrisのTwilightに見る如く、鏡はそれ自体で既に『倍化』の不思議の根拠になりえます。物語にしたことで、観客にとってただ観賞するだけのものになってしまっています。つまらないアクトです。

え、これFoolerなの?

 

 

 

www.youtube.comJohn-Henry Larssonのジャグリングとカップス&ボールスのアクト。Pennの言うとおりに"Perfect!"です。しかしながら、ある範囲の中での『完璧』にすぎません。そしてFoolerでもありません、残念ながら。

このアクトのよさはそのシンプルな美しさにあります。ジャグリングにしろ手品にしろ一昔前のものなのですが、それが完璧に調和している。これ以上に趣向を凝らそうとしても、アクトの良さは損なわれてしまうでしょう。

とにかく動きがいいし、現象に合わせて顔を寄せて、カメラ映えする画を作ることも忘れません。全方位的に『完璧』であり、ショーをやるなら是非とも呼びたい人材です。しかし手品として見ると不思議ではないし、ジャグリングとして見ると卓越してもいない。難しいところですね。

 

 

 

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Jaana Felicitasの、氷がテーマのアーティスティックな演技。アート系の手品は、一瞬でも観客の気持ちを醒めさせるとすべてが茶番になってしまうのが難しいところですが、本手順はぎりぎりその綱を渡り切れていないと感じます。水と氷ならではの現象を交えている点は高評価ながら、演技時間を埋めることができずにつまらない現象を入れてしまい魔法が破れている。

オチの現象は、他の素材であればマトモな現象にならないところ、この道具立てであればこそクライマックスになりうるものであり、センスは良いと思います。

 

 

 

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娘に捧げる、お菓子を使ったアクト。特に言うことはないです。つまらないです。

 

 

 

2023年末の手品視聴は以上です。

実は先日、生まれて初めて、第一線の手品を生で見る機会に恵まれました。大変に素晴らしかったのですけれども、次はそれを良い感じに言語化できたらなーと思います。

七咲逢について考えていること/僕たちの知らない七咲

 どうにも色々なものが楽しめず手にも付かぬ日々が続いているので、ここらでひとつリハビリとして七咲のことを書こうと思う。本稿を書くにあたって、然るべき裏取り、つまりアマガミSSの再視聴をほぼしていない。いまアマガミSSを観て面白く感じられなかったら、ちょっと本当に立ち直れない気がするからだ。内容に致命的な誤りがあったら、お手数だがご指摘いただけると助かる。

 

 橘純一から見た七咲逢アマガミSSのメインカメラに映った七咲逢がいったいどういう少女であったのかは、前の稿である程度明らかにできたと考える。家事に部活にと頑張る彼女は、しかし勉強や人間関係などで明らかに無理が見えてきており、破綻寸前の危ういところだった。橘君と出会って、彼女は段階的にそれらから解放される。その解放の象徴が、作中で2度行われたヘンシン(変身=変心)のシーンだった。

 これで七咲逢と橘純一の物語はおおよそ見通せるようになったが、七咲編にはまだ不可解なシーンがいくつも残されたままだ。それらは本筋の理解には関わらないが、無視するにはあまりに大きすぎる。本稿ではそれら残った謎を整理し、そして解消することを試みたい。

 

 まず分かりやすく未解決なシーンは絢辻詞にまつわるものだ。図書室で勉強をしているところに偶然絢辻がやってくる。橘は二人を紹介するが、このときの二人の様子は実に不自然だ。七咲は最初、近づいてくる絢辻の方を見ていたのに、いざ紹介される段では、自分の名前が出るまで微妙に目をそらしている。絢辻は七咲を値踏みするようにじっと見つめるし、七咲もそれを受けとめ、一瞬眉をしかめる。少しの緊張。けれど場面はこれでおしまいで、絢辻は「七咲さん、橘君にしっかり教えてもらってね」とだけ言って去って行く。本当に不可解なシーンなので、よければ今すぐにでも該当箇所を視聴してもらいたい。

 しかも、このシーンには続きがある。最終話、水泳部の屋台でおでんを売っているところに絢辻がやってくる。酔い潰れた高橋先生を回収してもらい、そのお礼におでんを渡す。表向きはそうなのだが、少し遠慮してみせる絢辻に、七咲が目で訴え、そこで何らかのこわばりが解けて、おでんが受け取られるのである。この見つめ合いが、図書室のシーンと対応していることは明白である。

 図書室でも屋台でも、同席している橘(≒視聴者)には分からない表面下で、何らかのやり取りが行われている。けれどその内容が分からない。絢辻と七咲はそれほど親しいとも思われないのである。図書室では互いに初対面といったふうであったし、その後もとくに関わり合いはなかったはずだ。

 

 さて屋台の話が出た。屋台は七咲編のもうひとつの謎、水泳部にまつわる謎の、最も極端な表れだ。創設祭で七咲と橘は水泳部のおでん屋台を切り盛りする。一年生の七咲と、完全に部外者の橘が、水泳部伝統の屋台を、ふたりだけでだ。どう考えても異常である。アマガミSSではよく異常なシーンが発生するが、それは恋にのぼせた主人公とヒロインふたりだけの世界であったり、あるいはカメラの切り取り方や演出の工夫によるものがほとんどであって、常識的な基準を極度にねじ曲げるようなことはあまりない。しかしここでは水泳部という組織が、さらには創設祭という外部に開かれた場で、なお異常なことを行っている。茶道部からも「伝統ある女子水泳部の屋台になんで男が居るんだ」と突っ込みが入るわけで、作中の基準に照らしてもやはりおかしいのである。この『水泳部のおでん』は別ルートでも特別な扱われ方をしており、伝統のレシピをなぜか一年の七咲が引き継ぐことになる。もちろん水泳部のおかしなところと言えば、そもそも覗きでしょっ引かれたうえに、競泳水着に抑えられた控えめな胸の素晴らしさを全員の前で力説した橘が許された感じになっているのもおかしい。あの場が勢いで流れただけならともかく、その後、創設祭で店番まで任されるのだから、言ってしまえば水泳部公認の仲なのである。七咲編はとりわけ異常なイベントが乱発されるので感覚が麻痺しがちだが、少人数のプライベートでの逸脱と、組織の公共空間での逸脱はまったく話が違う。水泳部は明確におかしい。

 以上が七咲編の、ことさらに未解決な場面である。橘純一から見た七咲逢のことはおおむね理解できたが、それは七咲の一面でしかないらしい。絢辻詞から見た七咲、水泳部から見た七咲はどういった人物なのだろう。我々の手札にあるのは、メインカメラ(≒橘視点)に偶然映り込んだ断片的な情報だけであり、そこから推測していくしかないのだが、ここでまだ未検証の視点がある。本編において七咲逢と深く関わる登場人物がもうひとりいる。誰あろう橘美也だ。

 

 さてちょっと、いやかなり話が飛ぶのだが、ガールズ&パンツァーというアニメ作品がある。超有名なので知らない人もいないだろうが、その主人公チーム5人は非常に個性豊かだ。なぜそうなのか。もちろん主人公チームだから個性的でなくては作劇の上で困るのだが、この作品ではちゃんと作中に補助線が引かれている。つまりチームのひとり武部沙織という少女がとても世話焼きで、孤立している変な子を放っておけない性分なのだ。さらに武部沙織のそういった性分にもまた理由があって、彼女はとびきり変で孤独な子、冷泉麻子と幼なじみでずっと世話を焼いてきたから、似たように変な、そして寂しそうな子を放っておけないのである。この武部沙織の特質は作中で強調されたりはしないが、キャラクタ同士をしっかりと結び付け、物語の根底にある人間関係を自然なものにしている。素晴らしいキャラクタ造形である。

 で。何が言いたいかというと、あるキャラクタが仲良くなる相手には、何らかの共通項がある場合がある、と言うことだ。美也の話に戻る。夏に学期途中で転校してきて、冬になった今もクラスに馴染めない中多紗江を、美也は大いに構う。その構い方はちょっと行きすぎているようにも見えるが、中多紗江の方もまんざらではないようで、ふたりはほとんどいつも一緒に居る。実は美也もクラスで孤立していて、はみ出し者どうし慰め合うようにセットになっているのでは、という悲しい想像もできるが、いや美也は兄の前でこそあんなキャラクタだが、文化祭でクラスの出し物を主導し、その劇でメインキャストを演じたりしているのだから、クラスで主導的かつ愛されている人物とみていいだろう。美也の方から積極的に仲良くしているのだ。思えばゲーム版のオープニングでも、兄・橘純一に対して高校一年生らしからぬ深い気遣いを見せていた彼女だ。新しい環境に馴染めない中多紗江を構うのは自然に思えるし、本稿では踏み込まないが、中多紗江は単に内気ゆえに馴染めないのではなく、前の学校で何事かあったようであり、ならば美也にとって、紗江もまた兄と同じく傷心を抱えた者でもあるのだ。さて、そんな美也が中多紗江と同じく仲良くしているのが七咲逢だ。だから同じく、七咲逢もまた孤立し、何かしら傷心を抱えていると考えてもいいのではないだろうか。

 

 これだけでは根拠として弱いが、考えるきっかけとしては十分だろう。七咲は孤立していたとする。ではどうして? 直接的な手掛かりは見当たらないが、周囲の七咲への接し方から逆算はできよう。改めて、順に見ていく。

 まずは図書室での絢辻との場面だ。橘から紹介されたあと、絢辻は七咲をじっと見つめる。優等生モードの絢辻は初対面の下級生に対してこんな不躾な事はしないはずだが、ここではしている。そうしていい相手ということだ。では、ふたりはこの時点で既知の間柄だったのだろうか? しかしそうであるなら、橘に紹介されるまでもなく話しかけていいはずだ。橘から紹介されて初めて、このような態度をとるのである。整理すると、絢辻にとって七咲は『初対面で睨め付けてもいい』相手、そして『顔は知らないが名前は知っている』相手ということになる。ここに先ほどの、七咲が孤立しているという仮定をあわせて考えると、つまり絢辻は七咲のことを『悪い評判』で知っていたのではないか。

 そう考えると、絢辻が威圧するように見つめ、そのあと猫撫で声で「七咲さん、橘君にしっかり教えてもらってね」と言ったのも、「お前ちゃんと大人しくしていろよ」と圧を掛けているように見える。橘が絢辻を紹介したときに「うちのクラス委員長の絢辻さん」と役職付きだったのも、橘に特別な意図はなかっただろうが、この場面の絢辻・七咲の力学に影響を与えているだろう。この見立てに沿って対になるシーン、創設祭でおでんを渡す際のやり取りを考えると、今度は七咲の方から「自分はもう大丈夫だから」と目で伝え、絢辻がそれを受け入れた場面としてうまく説明がつく。

 

 さて七咲の『悪い評判』と言ったが、現在進行形の不良でないことは明白だから、過去になにか問題を起こし、その更生途上にあると考えるべきだろう。そうすると水泳部との関係もはっきりする。水泳部は、もちろん塚原響が主導してだが、七咲を保護しているのである。七咲に打ち込むものを与え、集団行動やボランティアをさせ、ヤバイ彼氏(橘)がプールに闖入しても許容する。あの子は今が大事な時だからどうか支えてあげて、とでも塚原は言ったのかも知れない。そのあげく、創設祭では伝統の屋台をこのバカップルに任せてしまうのだから過保護と言っていい。七咲が橘と付き合わなかったルートで、伝統のおでんレシピが一年生の七咲に託されたのも理屈は同じだ。庇護者である塚原響は、自身が卒業して面倒を見れなくなった後でも、七咲がうっかり水泳部を辞めてしまわないよう、責任ある役職、特別な立場を与えることで縛ったのだ。橘と付き合うルートでレシピが託されなかったのは、橘に依存するかたちで立ち直った七咲は、もう水泳部に依存させる必要が無かったからだ。

 

 そう考えてみると、そもそも橘純一が出会った頃の、「七咲はすごいよなあ。それに比べて僕は……」と思わずこぼしてしまう、あの澄ました顔で全方位的に頑張っていた七咲は、品行方正・文武両道であろうと無理をしていたのかもしれない。頑張りが綻び始めていたのも、それが某仮面優等生とは違い、生来の能力に見合ったものではなかったからではないか。またあるいは、体育館裏で再会した七咲が、自らスカートをたくし上げて橘をからかったのも、お行儀よくしているストレスに対する反動で、自身の体をわざと性的にぞんざいに扱う自傷的な行為であったのかもしれない。

 七咲が起こした問題が具体的にどういったものであったかは、手がかりが少なすぎて何とも言えない。ただ絢辻が七咲に直接釘を刺すようなことを言っているので、周囲が気を遣うと言っても、身内の不幸とか親との不和といったものではなく、七咲自身に一定の非があること、一方で水泳部の女子一同からかなりの程度の理解と同情を得られているらしいことから考えるに、たとえば異性絡み、悪い男にでも引っかかったのではないか。橘と出会った当初に、彼をセクシャルにからかう様子が妙に手慣れていたことも、そう考えれば辻褄が合うかもしれない。だがまあ、具体的な手掛かりを見つけられない以上、これはどこまでも妄想の域を出ないものであるから、ここらでやめておくとしよう。

 

 これで七咲のことがだいぶ分かったのではないか。前稿では橘純一との物語を、本稿ではそこに至るまでの、橘純一からは見えなかった七咲の背景を、ある程度まで明かせたのではないかと思う。七咲は何か、それなりに大きな『問題』を起こし、更生の途上であった。塚原響は水泳部を挙げてそれを助けていたし、一方で絢辻は警戒もしていた。美也はその孤独を放っておけなかったし、兄の純一はといえば、そのあたりがこれっぽっちも見えておらず、「部活も家事も頑張って、ボランティアまでして、七咲はすごいよなあ!」なんて暢気に感心していた。けれども、倒れそうな彼女をいちばん近くで支えたのも彼だったのだ。……まあ橘が居なくても、それはそれで立ち直っていた七咲ではあるんだけれど。

 さて、書くことはこれで尽きた。そういやゲーム版アマガミの出会いイベントでは結構グレてる感じのヤツもあったよね七咲、とかそういう話もあるが、本稿はアマガミSSの話なので深入りしません。本稿を読まれた方が七咲逢という少女ついて、改めて思いを馳せてくれたなら、これ以上の喜びはない。それでは。

アマガミという古い、しかし古びないゲームについて/トム・ジェームズ

 

 これは2018年1月28日にMediumに投稿されたTom James氏の"The Case for Amagami in 2018"を、氏の許可と監修のもと翻訳したものである。翻訳はおおむね愚直に行ったつもりだが、幾つかのパラグラフでは表現を大きく変えている。元記事は以下のURLから読むことができる。https://medium.com/@freelansations/the-case-for-amagami-in-2018-db8afe0244e0

 

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 少なくとも表面上、僕はこのゲームが想定しているプレイヤー像とは考えられる限りかけ離れている。2009年にPlayStation 2で発売されたこの恋愛シミュレーション・ゲームは、90年代後半の日本を、ある種のノスタルジックなものとして舞台に設定している。僕自身の人生経験とは、ほとんど共通するものがない。

 その時代、僕は日本にいなかったし、日本語を話してもいなかった。言うまでもないが、日本の高校に通ったこともない。アマガミの世界設定は、携帯電話さえまだ子供たちに普及しておらず、ビデオを買うといったら(普通のやつも、暖簾の向こうにあるやつも)まだVHSが主流だった時代だ。遊戯王が国中を湧かせた新作アニメだったし、日本はド派手に崩壊したバブルをやっと乗り越えたところだった。

 一方、僕が高校生をしていたのは2000年代後半のコロラドだ。ちょうど最初のiPhoneが発売され、Blu-rayがじわじわとDVDに取って代わろうとしていた。アニメだとNARUTO疾風伝のTV放送が始まったところで(これは前シリーズの倍の期間続くことになる)、また我々の金融システムの歪みが見え始めたところだ。とはいえリーマンショックにはまだ幾ばくかの間があった。もちろん共通するところは見つかるだろうけれど、喚起される特定の心象や時代について言えば、アマガミは僕の高校生活の思い出と噛み合うようには作られていない。このゲームの設定画面には、なんとまあ、サウンドをすべてPC-9800風のFMシンセ音源に切り替えられるスイッチまで用意されてるんだ。

 

  けれど、アマガミのプレイに100時間近くを費やし、多くのヒロインと親しくなって、たくさんのエンディングを解放する中で、10年も後のアメリカの高校生だった自分自身の体験が、幾度となく共鳴するのを感じた。アメリカの高校と日本の高校では、制服やクラス分け、そもそも学校生活に費やす総時間さえ違っているけれど、そこにはやっぱり『思春期』につきものの浮き沈みがあり、悲しみ、気まずさ、愉快さ、それにともかくなんとも言いようのないできごとで溢れている。

 アマガミは感傷的で郷愁的な作品だけれど、それは単に90年代の文化や情景を使ってこちらの記憶を突っつくという典型的な方法だけでなくて、もっと共感的な方法も用いる。アマガミは恐れることなく、率直に、堂々と、僕らみんながあの年頃に経験したことを扱う。良いことも、悪いことも。なんであれとてもリアルで、とても妥当に。プレイヤーは遠く過ぎ去ったあの頃の自分たちを思い出さざるを得ないだろう。

 輝日東高校の生徒は誰ひとり完璧ではないし、また誰ひとり完璧を望んでもいない。彼らはただ、自分のあり方へのささやかな肯定を求めている。自分の人生とその歩み方が、他の人とほとんど似通っていないように見えても、それでも大丈夫で、確かで、間違っていないのだと、少しでいいから認めてほしいと願っている。複雑なティーンエイジャーだった頃のあなたには、たぶん人生や成長について、言いたいことがたくさん、それも込み入って相反することがたくさんあっただろう。アマガミにはそのことに対する静かな理解がある。アマガミにおいて、それはいいことで、それのみが、あなたにできた正しく誠実なことなのだ。

 

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 この点を痛切に描いたシークエンスが序盤にある。可愛くて、けれど内気で、失敗を恐れている恵子と、もじゃもじゃ頭でお節介な薫が関わる序盤のサブ・プロットがそうだ(ふたりについては上のスクリーンショットを見てくれ)。恵子は同級生の男子に恋をしている。あるいは、少なくとも彼女自身はそう思っている。彼女の告白に対する彼の返答は、よく言っても薄っぺらで、彼女を宙ぶらりんの状態にした。悪く言えば、好意を利用して彼女を手軽な性の相手にしようとしたのだ。

 無理からぬことだけれど、可哀想な恵子はどうすればいいのかわからなくなって、彼とどう向き合えばいいのか、あなたにアドバイスを求めることになる。気持ちをしたためた手紙を渡して、態度をはっきりさせるよう彼に迫ればいいのでは、とあなたは提案するのだけれど、この計画は悲惨な結果に終わる。この男は彼女の手紙を友人たちの前で大声で読み上げ、内容をあざける。この事件はあきらかに恵子に傷跡を残した。いつか気持ちを切り替えて、ほんとうに自分を愛してくれる人を見つけるなんてことが、できるようになるだろうか、と彼女は疑う。いつも前向きで友人思いの薫は、男なんて星の数ほどいるんだからさ、と多くの大人のアマガミ・プレイヤーが言うだろうことを言うのだけれど、はじめて現実的な意味で異性に告白し、それがかくも痛ましい失敗に終わったことは、恵子に深い疑いを残す。自分には若い女性としての魅力があるのだろうか、自分を心から認めてくれる人を見つけることはできるのだろうかと。

 

 アマガミの全てのエピソードがこういった湿っぽい空気で終わるわけではないし、またここまで重大なことになるわけでもない(少なくとも短期的な視点では)。しかしいずれにせよ、アマガミにはプロットの糸をもっと簡単かつ急速に解消するのではなくて、登場人物たちに良いことも悪いことも自然に経験させたいという意志がある。それは彼らの未熟さ――いろいろな出来事が尻すぼみに終わったり恐ろしいほどの急転直下を迎えたりと目まぐるしく起こるこの時期につきものの――に対する、アマガミの直感的な理解を強調する。 

 輝日東高校の生徒たちは時に苦闘する。心を開こうとし、自分自身や自分の願望に誠実であろうとし、互いを尊重しようとする。けれどその先に何が待ちかまえているのか彼らには分からないし、さらには実際に飛び込んでみるまで、そもそも先が存在するかさえ知りようがない。それが彼らの足を竦ませもする。一般的な恋愛シミュレーションが単に可愛いパートナーを見つけそしてふたりはいつまでも幸せに、でやっていくのに対して、アマガミは勇気を見つけようとする物語だ。それは周囲の世界に対して、自分らしさを隠さず誠実に向き合おうとする勇気であり、それによって幸せな人生――不完全で歪な『わたし』のことを真摯に理解し、受け止めてくれる友人や伴侶を見つけ、また彼らと共に自分らしく生きること――のひと欠片でも手にしようと踏み出す勇気である。

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 キャラクターたちの、自分らしく生きようとし、自分自身を表現しようとする苦闘は、単にプロットの基点や主軸に留まらない。カドカワの学園恋愛シミュレーション・ゲームの正統でもある本作には、恋愛対象の少女たちとの偶発的な会話イベントが存在する。これはメイン・イベントのあらゆるシーンと同じく、彼女たちの心の動き方を鮮やかに描き出す。

  プレイヤーであるあなたは、彼女たちと9つの異なった話題でおしゃべりをする。彼女たちの好む話題は、彼女たちそれぞれの個性であったり、いまの会話のムードや、あなたがいま彼女とどういった関係性を築いているかで変わってくる。最初のころ、これらのおしゃべりはあまり実りのないものに思えるだろう。学校生活やクラブ活動のごく表面的な話とか、好物は何かとか、昨日の夜に観たTV番組とか、そういうちょっとした断片ばかりだ。しかしそれを続けていくと、すぐに、あなたは薫が、なんというかその、常にもじゃもじゃな外見に反して、ファッションに一家言あり、最新の流行にアンテナをはっていることを知るだろう。あるいは、あのやんちゃで変わり者のはるか(上のスクリーンショットを見てくれ)が、修学旅行の時に同室の女の子たちのいたずらでアダルト・チャンネルを見てしまったということを。ときにはメイン・プロットで起こった事件や、学校周辺での出来事が話題に上がることもあり、それらの出来事に連続性を与えもする。

 これらのおしゃべりイベントは、彼女たちの頭を占めている事柄についての情報がいつも得られる、というわけではないが、彼女たちが重大な問題に直面したときに取る態度や抱く不安を理解するのに必要な空白を埋めてくれる。そのために、これらの会話は本筋とはまったく無関係であってもなお、価値あるものに感じられるのだ。

 

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  しかし時として、語られず中空に漂っているものこそが、彼女たちが考えていることや、彼女たちの物事への対処の仕方について、より多くを明かしてくれる。キャラクターの立ち絵とダイアログ・ボックス、動きのない背景といったものを経て発展してきた多くの恋愛シミュレーションやビジュアル・ノベルと同様、アマガミも省エネ・アニメとでも呼ぶべきものを備えている。このアニメーションは極めて控えめな量ではあるが、既にして精妙なキャラクターに、秘やかな、しかし強力な新しいレイヤーを加えてくれる。

 とりわけ、その目だ。僕たちを惹きつける目。彼女たちが思いをうまく言葉にできないでいるとき、代わって雄弁に語る目。あなたと喋っているあいだにもあちこちを向き、時には確信をたたえてまっすぐにあなたの目を見つめ、また時には考えをまとめているように神経質にそっぽを向き、あるいは一度に何百もの考えが頭を巡っているかのごとくぱちぱちと激しく瞬く。

 目はほとんど話題に上ることがないが、このパズルにおける極めて重要なピースであり、性格描写という点について言えば、グラフィック、文章、声の演技とおなじ位置で評価されるべきものだ。ほかの3つの要素が、多くのこういったゲームにおいてキャラクターに最低限の命を吹き込むのに十分だとすれば、アマガミがその方程式に加えた、変化し、生き生きと動き、活発な目こそ、彼女たちに魂を与え、彼女たちをかくもチャーミングに、美しく、痛々しいほど人間的で、また親しみやすいものにしている。

 

youtu.be

 こういった時として必死な、しかし常にひたむきな目は、アマガミが備えている武器の中でも最も強力なもののひとつで、ジェネレーション・ギャップを飛び越えて僕を僕自身の高校生活の歳月へと引き戻す。はるかが彼女なりの不器用でまごついたやりかたで、愛情を伝えようと柔らかな視線を僕に向け、目と目で戯れるとき、かつて教室で、離れた席の恋人と目を合わせて訳知りな笑顔を浮かべ、少しのあいだ互いに周囲を忘れて、二人だけの小さな世界に入ったことを思い出す。小柄で、柔らかな声で話す紗江が、――自分の考えを口に出すのが苦手で、おまけに男性慣れしていない彼女が、何を言えばいいか分からなくなり、目をあちこちに彷徨わせ、僕を真っ直ぐに見ようとはしなかったとき、僕は一緒の高校に通っていた、可愛くて、だけど同じように内気で、家の中での役割を決められ、望んでもいない未来へのレールを親に敷かれていた、あの友人たちの事を思い出す。薫が目を細め、顔を赤らめながらも、長いあいだ曖昧にしてきた自らの感情をはっきりさせようとして、これまでのふたりにとって自然な距離よりも近くに座ろうとしてきたとき、僕は僕自身がその歳だった頃、多くの女の子と友達として仲良くしながらも、彼女たちに抱いていたもっと深い感情をどれもうまく言葉に出来なくて、より深い関係を築くにはどうすればいいのかともがいていたことを思い出す。

  これらのシーンは時に僕をたじろがせる。それらが陳腐だからではなく、また過剰に感傷的だったりドラマチックに感じられるからでもなく、それらがあまりにも鋭く、僕自身の思春期の経験を捉えるからだ。僕があの頃しでかした恥ずかしい失敗や間違いを、否応なく思い出させるからだ。大人になった僕は、そういった苦難は成熟の一過程であり、彼女たちも最後にはそれらを乗り越えて成長するだろうことをよく理解している。それでもなお、彼女たちがそれらのシーンに直面したとき、僕は、彼女たちが苦しみや困難にさらされることなく、ただ幸せで平穏にあってほしいと心から願わずにいられない。

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 表向きのゴールこそ誰かと学校のクリスマス・パーティに行くことではあるけれど、アマガミというゲームは、なによりもまずその瞬間その瞬間に起こるこういった小さな交流によってかたちづくられている。交流というのは概して即興的なものであり、唐突で予期しない発見や、根拠のない信頼といったものを土台にして築かれていく。そしてついには、ふたつの魂が互いに理解し合おうとし、互いにそれぞれのやり方で成長しようとする特別な原動力にふくれあがる。

 だからこそ、アマガミでは本筋とあまり関わりのないイベントや会話がかくも胸に迫るし、ドラマチックなご褒美シーンに辿り着くために潰さなくてはならないノルマとは感じられない。この積み重ねが無かったとしたら――こういった巨視的にはまったくどうでもよく、けれど微視的には、つまり個人にとっては重大な、偶発的なヘマとか掛け替えのない一瞬といったものが無かったとしたら――アマガミの旅路が活き活きとして個性的な『誰か』と親しくなっていく冒険に感じられることはなく、常に気持ちよく、あるいは常に楽しくあれという義務感がうっすらと感じられる、ただのハイライト集の押し付けにしかならなかっただろう。

 アマガミの中で、特定のルートに沿ってあなたが最終的に取った道のりの、その結末は、あらかじめ定められていたものではあるのだろう。しかしそこに至るまでにあなたが出会い、行い、語った沢山のものごとは、プレイヤーであるあなたの選択の結果であり、あなたに積極的な参加を求め、また幸せな、満たされたエンディングに到るための種まきである。それぞれの少女について、語るべきこと見るべきことは実にたくさんあり、あなたはそのうちのいくつかを必ず見逃してしまう。しかしそれゆえに、あなたと彼女が辿った道のりの一歩一歩は、あなたと彼女だけのものであり、ふたりがうまく交流を育み、そしてふたりだけのやり方で、幸せな結末に至ったかのように感じられるのだ。

 

 僕はいつも、ある誕生日のシーンを思い出す。これは関係性描写に対するアマガミの哲学、『重大でないことの重大さ』を体現したシーンだ。ゲームの6週間という期間も終わりに近づいた頃、プレイヤー・キャラクターは17歳の誕生日を迎え、そしてもしあなたが女の子たちと十分に仲良くなっていたら、彼女たちから記念の誕生日プレゼントをもらうことができる。このプレゼントはゲーム内で特別な働きをするわけではないが、ゲームを始めてからあなたが築いてきた関係性を、はっきりと象徴するものではある。

  そういったシーンうち、はるかに関心を絞っていたときに発生するもののなかで、彼女はその日の夜にあなたの家を訪れる。玄関口で、来訪の目的について照れてはぐらかしたりとひとくさりイチャついた後、実は誕生日プレゼントを渡そうと思って、と彼女は明かす。プレゼントの包装を開けると、箸とレンゲが現れる(レンゲというのは、ラーメンなどの麺類でよく使われる、ひしゃくっぽいスプーンの日本での呼び名だ)。

 

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 アジア料理で育っていない西洋人の多くにとって、贈り物が食器というのはいささか素っ気なく思えるだろう。もちろん素晴らしい銀のカトラリーだって存在はするが、たとえ料理が趣味の相手にであっても、贈り物としてまず思い浮かぶたぐいのものではない。しかし日本やその他アジアの国々では、一組の箸というのは非常に個人的なものなのだ。シンプルでけばけばしいプラスチック製のものから、もっと厳粛で凝った作りの木製のものまで、様々に細部の異なるものが、広い価格帯にわたって存在している。ある人が家で普段使いする箸としてどんなものを選ぶかは、その人の背景や個性について多くを語りうるし、そのように個人を象徴するものであるために、箸は値段にかかわらず大切に扱われるだろう。

 

 はるかはゲームの中で、だいぶんお気楽なキャラクターとして描かれるけれども、僕が彼女のルートで、彼女とイチャつくなかで、この誕生日のシーンに出くわしたとき、僕はすぐに、彼女から箸をもらうことの重大さを感じ取った。とても多くの時間、ふたりでおしゃべりをし、一緒に楽しいトラブルに巻き込まれた後、彼女はいままさに、ふたりでいる時間が彼女にとってどういう意味を持つのかを、はっきり宣言する用意ができたのだ。そしてまた、僕の好みに合うだろう箸を贈ろうとするだけでなく、大胆にも、この贈り物をふたりの関係の記念品にし、僕がそれを使って食事をするたびに彼女を思い出すよう目論んだのだ。 

 彼女のこの大博打は、プレイヤーとしての僕の心を揺さぶっただけでなく、僕のとても大切な思い出を呼び覚ました。僕もおなじくらいの歳のころに、すてきな一膳の箸をもらったことがある。高校生活で多くの時間を一緒に過ごした女の子から。僕はその子が好きだった。いまでも鮮明に覚えているのだけれど、木製の格好いい黒い箸で、金の装飾がされた美しい青の布袋に収められていた。高校を卒業した後も、何年もその箸を使っていたし、彼女と音信不通になった後でさえ、箸は目論見通りの効果を発揮した。この思い出をアマガミ追体験したとき、僕は誇張ではなく、涙を流した。彼女の言葉、彼女の仕草はあまりに真摯で、胸を打ち、僕は抑えることのできない心地よい郷愁に圧倒された。

 

 その後このルートの中で、このシーンが明確に再言及される事はなかったけれど、このシーンが僕自身に及ぼした影響、そして僕がはるかとの交際を思い出すときの「まなざし」に及ぼした影響は消えることはなかった。そして、それはまったくいいことなのだ。それは僕がはるかと築いた不格好でけれど特別なものの端的な表れだ。僕が彼女と歩んできた道のりは、すべてが完璧とはいかなかった。とりわけ彼女に好意を抱き始めた最初の頃には、沢山のぎこちない躓きも経験した。でも僕らはそれらを乗り越えてきたし、そのためにより強く、より親密な関係を築くことができた。そして迎えた誕生日の、一膳の箸は、彼女もまた同じ気持ちでいることを伝えてくれる大切な贈り物なのだ。物語として見たとき、これはクライマックス期間の直前のちょっとした脱線だけれど、ふたりの人間がともに過ごしてきた時間や、成長し成熟しても相手の中に生き続ける自分のこと、そしてまだ起こっていないふたりの未来に対する期待、そういったものに思いを馳せる重要なターニング・ポイントになっている。

 

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ときめきメモリアルPCエンジン版)

 こういった、他のジャンルにはない独特な時間と感情の費やし方によって、アマガミのような純粋な恋愛シミュレーション、つまり単に別ジャンルのゲームに交流要素として切り詰めた会話システムを接ぎ木しただけのものではないゲームは実現している。しかしこの投資と報償のデザインは、ジャンルが生まれ、流行り廃りを経てひとつのジャンルとして(ニッチではあるが)確立されていくなかで大きく変化してきた。1994年にコナミときめきメモリアルが発売され、このジャンルの最初のブームが起こったとき、恋愛シミュレーションが主として確率とパラメータによって駆動されるゲームだったことは、それに先立つ10年間、日本のコンシューマ市場とPC市場では複雑なRPGと戦略ゲームが絶大な人気を誇っていたことを考えれば、とくだん驚くべきことではないだろう。伝説の樹の下で憧れの女の子から告白されるために、あなたは彼女から魅力的に見えるよう、特定のステータスを上げなくてはならないのだけれど、それぞれの行動によって別々のステータスが上がったり下がったりするので、目的を達成するには日々の予定を慎重に管理しなくてはならない。これは90年代、ジャンルが花開いた直後の後続作品たちでも、再び2000年代に、精神的な後継作であるラブプラスが出たときも同様だった。それぞれの作品を個性的にしているのは、必要に応じたビジュアル面でのマイナーチェンジと細部の調整であり、それで十分だったのだ。

 

 しかしながら、こういったオールド・スタイルの恋愛シミュレーションでよく用いられる公式には、皮肉な過ちがある。ステータス・ベースのRPGライクなシステム設計は、実際に人が他者との交わりの中で自らをよりよく変えていく際に進行していることを、何かしら再現していると言うことはできるだろう。しかしこのプロセスを明確な数値とゲージにまで煮詰めてしまうと、作品の最終的な結論、つまり交流(交際)とは何かというメッセージを、自己中心的で近視眼的なものにしてしまうリスクがある。

  相手が抱いている理想のパートナー像にあわせ、その通りに自身を構築していく限り、あなたは何の心配もなく、誰であれ好きな相手と恋仲になることができる。望む通りの物を彼女たちに贈り、望む通りの扱いをし、とりわけ望む通りに受け答えをする。決して脇道へ逸れることなく、彼女たちの心地よい領域から外れることなく、彼女たちに本当のあなたを知るチャンスを与えることなく。少なくともあなた達の交際が公認のものになり、ふたりが本当のカップルになるまでのあいだ、そこには諍いも不信も退屈もない。「しかし」もなく「もし」もないのだ。 

 いまTinderやデートサイトのプロフィール欄が、相手の興味を引くためだけのわざとらしい写真や綺麗ごとで埋め尽くされているのと同じように、日本の恋愛シミュレーション・ゲームにも相手の好きそうな物ばかりを(自分がそれを好きかどうかに全然関係なく)選ぶことで恋愛を成立させるというウンザリする時代があった。彼女は知的な男が好きらしいから『勉強』を上げよう。今度の彼女は……よし『芸術』を上げていこう。でもそれでは、お互いがどういう人間なのか、本当のことは全くわからないままだ。

 

youtu.be

 村上春樹の『国境の南、太陽の西』の序盤で、主人公の始(はじめ)は高校の時のガールフレンド、イズミとの初めての性的体験の後でどのように感じたかを語る。『僕は今までよりもっとイズミのことを理解できたような気がしたし、彼女の方も同じ気持ちだっただろう。必要なのは小さな積み重ねだ。ただの言葉や約束だけではなく、小さな具体的な事実をひとつひとつ丁寧に積み重ねていくことによって、僕らは少しずつでも前に進んでいくことができるのだ。』 

 アマガミの、コナミ流の高校恋愛シミュレーションに対する静かなる反駁が、多くの、本当に多くのルートに散りばめられた小さな事実の集積に宿っている。アマガミにおける交流は、上がったり下がったりする一連のパラメータや、はっきりと示された理想像に到達するため戦略的に選択する授業科目や課外活動といったものでは捉えられない。アマガミの『それ』は、何気なく生まれた、仲間内だけで通じるちょっとしたジョークやお決まりの掛け合いだ。『それ』は互いに見つめあうときの仕草、交わすほほえみ、身構えなくていいと分かっているときに彼女たちの声に滲む心地よい響きだ。『それ』は人のするあらゆることだ。誰かに求められてではなく自然と行うこと、しかしときには誰かに頼まれて行うこと、日常的に行っていること、あるいは一生に一度きりのことだ。『それ』は外部の者にはほとんど関係のない個人的な成功や失敗の瞬間であり、誰も、何も、変えはしないのだけれど、それでもなお、あなた達ふたりにとっては――それを必要とするふたりにとってだけは、決定的な瞬間だ。

 

 アマガミは個人と個人の不安定な関係と、そこで起こる化学反応とダイナミズムに焦点を当てるという、恋愛シミュレーションとしてはとても困難な道を選択している。アマガミはその登場人物たち、つまりあなたとヒロインたちに欠陥をあたえる。僕たちも彼女たちも、しばしば間違いをおかすし、怒ったり悲しんだりするし、他人の言動を良いふうにも悪いふうにも誤解したりする。彼女たちは自分の不安やトラウマを打ち明ける。同ジャンルのほとんどゲームが、ほんの一瞬であれ『完璧なヒロイン』の虚像を崩すことでプレイヤーに敬遠される可能性を恐れ、やろうとしないレベルで。しかしアマガミは『完璧』を求めていない。他のゲームのヒロインのような『完璧』さではなく、あるルートに数十時間を費やすに値する『ひとりのひと』を描こうとしているのだ。

 物語の最後には、相互の容認が訪れる。すべてのねじれ、欠点、粗々しさがあらわにされ、それでいてなお、互いに大切に思える『ひと』をそこに見出すだろう。そうだ。あの頃のあなたも、悪いやつじゃなかったし、どころか素晴らしくさえあって、その人間性のゆえに愛すべき人間だった。そして、いまのあなたも。

 

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七咲逢について考えている事/『七咲逢は2度ヘンシンする』

 

もうずっと七咲逢さんの事を考えています。みんなもそうだと思う。

 

七咲逢さんは、ご存じ、恋愛シミュレーションゲームアマガミ』およびそのアニメ化作品『アマガミSS』、『アマガミSS+』のヒロインの一人です。ここではアニメの方、それも+が付かない方におよそ限定した話をします。ネタバレを含むので観ていない人は先にアニメを観てください。観ている人も観ましょう。何回観てもいいものです。

 

さて、私はこの『アマガミSS』というアニメがとても好きなんですが、七咲編はとりわけパンチの効いたイベントが連発され、終わる頃にはだいたい「七咲可愛い……」「ふたりとも幸せにな……」しか言えなくなっています。それはそれでよいんですが、まあやはり一度くらいは、七咲編で何が起こっているのかを考えておきたいとも思うのです。そういう事でこれをしたためています。

 

アマガミSS』で何が起こっているか、という問いに答えるのは大枠では簡単で、主人公の橘純一くんが可愛い女の子と出会い、2年前の手ひどい失恋から立ち直って、最終的に彼女と恋仲になる。これが6+1回、ヒロインを変えて繰り返されます。ただしこれは橘君から見ての話です。

 

あたりまえですけれど、彼女たちは橘君の傷心を癒すための単なる慰撫装置ではなく、歴とした『キャラクター』で、彼女たち自身の物語を持っています。橘君がヒロインと出会って救われたように、彼女たちも何らかの形で救われる。『救われる』と言うとまあ、ちょっと大仰ですが、この年齢で誰かとつきあうというのは何かしら自己の変革を伴うものではありましょう。では彼女たちはどう変わったのか。

 

ところで橘君が6+1通りの救われ方をするのと同様、ヒロイン達も別に橘君でなければ救えない訳ではないんですね。この辺がアマガミ作劇の面白いところであり真摯なところなんですが、これはどちらかというとゲーム版で顕著な要素ですので今回は深入りしません。

 

さてヒロイン達はそれぞれ色々な救われ方をします。たとえば箱入り娘の中多紗江さんは、極度に引っ込み思案で男性に免疫がありませんでした。しかし橘君との出会いをきっかけとして徐々に社交性・積極性を発揮していき、最終的には制服に憧れていた喫茶店でバイトをしたり、学園祭のカップル・コンテストに挑んだりと目覚ましい成長を遂げます。では七咲さんはどう変わったのか。どう救われたのか。

 

前置きが長くなりましたが、これはそういう話です。ではまず、七咲編で起こったことを見ていきましょう。

 

 * * * * * *

 

13話:サイアク

・公園にて七咲と出会う。痴漢呼ばわりされる。

・体育館裏にて七咲と再び会う。妹の友人であることを知る。

・「見たいんですよね? スカートの中」などと煽られ、見る。

・夕飯の買い出しの荷物持ちを仰せつかる。

・福引きで商品券を当て、海岸でふたり、大判焼きを食べる。

 

サイアクとはなんだったのでしょうか。ともあれふたりが出会います。七咲が初っぱなから飛ばしており、これで視聴者は頭をガツンとやられて思考停止してしまうわけですが、さすがに誰に対してもこういうキャラではないと思う。友人(美也)の兄であるというのがポイントだったのでしょう。いやまあそれでもこうはならんとは思いますので、たぶん美也が日頃から兄のことを色々と面白おかしく話していたんでしょう。それならまあわかる……いや、そんなことはないな。

 

……そんなことはありませんでした。少なくとも七咲編の時空では、美也は「お兄さんってどんな人?」と急に尋ねられた、と言ってます。てことは、少なくとも明示的には情報共有されていない。え、じゃあ本当の初対面であの対応なのか七咲。どうなっているんだ七咲。



14話:トキメキ

・図書室で騒いでいたため七咲に叱られる。

・七咲に数学を教える事になる。

・最近弟が言うことを聞いてくれない、という相談を受ける。

・「子供っぽい先輩なら判るかと思いまして」

・担任の美人女性教師に叱られまんざらでもない気持ちになり、同時に七咲弟の問題について天啓を得る。

・七咲に伝えようとするが、同席していた中多さんの胸に圧倒され余計なことを言う。七咲は怒ってどこかに行ってしまう。

・女子水泳部の練習を覗き、あえて捕まって叱られる。競泳水着に押さえつけられた控えめな胸のすばらしさを水泳部全員の前で力説して七咲に許される。

・海岸にて。イナゴマスク変身ベルトを七咲から貰う。弟へのプレゼントだったが突っ返されたとのこと。

・変身ベルトの遊び方を指南し二人で遊ぶ。ベルトは寄ってきた子供にあげる。

 

早くも箇条書きが困難に。イベント盛りだくさんです。

図書館で七咲に怒られ、ぼーっとしていて先生に怒られ、ひいては水泳部の練習を覗いて女子部員全員に怒られで、とにかく怒られる橘君。しかしそのたびに大きなプラスを得ています。なんなら最後は自分から怒られに行って、謎の特大のプラスを掴み取る。すごい。

 

ともあれ七咲と少しずつ親しくなっていきます。数学の追試がある、という外面的な問題とそれへの助力をきっかけに、弟との関係で悩んでいる、というより内面的な問題へと誘導されます。こうしてみると、二人の距離がちゃんと段階を踏んで近づいていることがわかります。プール覗きのシーンは、うん、なんだろう。よくわかりません。

 

七咲が変身ベルトを贈ろうとしたとき、橘はちょっと嫌そうな反応を見せます。流石に変身ベルト貰って喜ぶ歳でもないよな、と思うのだけれども、そのすぐ後で変身ポーズを完璧に実演してみせるあたりかなりの特撮ファンだ。なんで素直に受け取ろうとしなかったんだろう。弟に遠慮したのかしら。……それとも、もう持ってたのか?



15話:ヘンシン

・遊園地無料チケットをゲット。七咲と弟を誘ったが、待ち合わせに現れたのは七咲だけ。

・弟は風邪を引いた……らしい。

・ファラオによる千年王国の呪いで七咲が味噌ラーメンになる。

・出会いの公園にてブランコに特殊ふたり乗り。キスされる。

・後日、七咲と帰ろうと放課後のプールに向かうと、塚原と言い争っている七咲を見つける。

・逃げる七咲を追いかけプールに飛び込む。泣く七咲。大会のレギュラーに選ばれなかった。

・帰路、落ち着いた七咲から創設祭で水泳部の屋台を手伝ってくれないか、と言われる。

 

急激に距離が縮まり、遊園地デートです。弟の存在がエクスキューズになり、しかしその弟が排除されることで成立しました。ここもちゃんとしている。

 

この遊園地前のシーケンスはたいへんによく、弟の姿が見えないがと尋ねた橘君に対しての「そのぅ……風邪です」はもう、おまえもう、という感じでたまりません。でもひとつ前の14話ラスト付近で、寝ている郁夫君が掛け布団を蹴飛ばしているのを、「風邪引いちゃうよ」と七咲が直してあげるシーンがあるので、風邪じゃないとは決して言い切れない。あなどれない。

 

もう少し遊園地前の話をしましょう。遊園地イベントは中多紗江さんのルートでも出てきます。そこでは遊園地デートの帰り際に、やっとふたりは手を繋ぐことができるようになる。一方の七咲は、入場時点でもう手を握ってしまう。キャラクターごとのペースの違いが、非常にわかりやすく示されるシーンです(※だが下の名前で呼ばせるのは中多さんの方が早いのだ)。アマガミはそもそもヒロインを変えながら(ほぼ)同じ時期を6回繰り返すお話ですが、さらにヒロインによっては類似のイベントを共有している場合があり、その描かれ方の差異はアマガミの醍醐味のひとつでしょう。

 

というわけで非常に面白い遊園地前シーケンスでした。その後、遊園地の中では七咲が味噌ラーメンになります。うん、なんだろう。よくわかりません。わからなくていいと思う。ヒロインが味噌ラーメンになるアニメ。

 

16話:コクハク

・創設祭、七咲とふたりでおでん屋台を営む。

・山奥の露天温泉で告白。

・エピローグ 海岸で膝枕。

 

女子水泳部の出し物であるおでん屋台を、なぜか七咲と橘君のふたりだけで切り盛りします。おかしいですね。さておき、二人の前に登場人物たちが次々と顔を見せ、ああラストエピソードなんだなという感慨があります。

 

その後、ふたりだけになってからの展開については、前15話のラストでもう七咲はその気だったので、単に実行が先延ばしになっていただけとも言えます。ただ、あのイベントの直後ではなく、ちゃんと時間をおいたうえでの選択であるというのは大事かもしれませんね。

 

ともあれ、おめでとう。二人とも幸せにな……。

 

 * * * * * *

 

……意識を持っていかれそうになりましたが、帰ってきました。

 

改めて橘君と七咲さんの恋路をたどりますと、意外にもちゃんと段階を踏んでいることがわかりました。図書館ではまず数学を教えるという形をとり、それをきっかけに弟の話に移ります。遊園地デートも、弟のことがあるので橘君は誘いやすく、また弟が風邪を引いたために『急遽』ふたりきりになりました。ブランコでのキスだって、その前にラーメンになって指にキスされている。七咲から急にキスしてきた、という風に見えるけれど、呪いであれ幻覚であれ先に橘君からキスをしてるという実績があります。私はアマガミSSのこういう丁寧なところが好きです。プール覗き謝罪シーン? あれはよくわかりません。

 

こうやってふたりは親しくなり、結ばれました。では、これは七咲さんにとってどういう意味を持っていたのでしょう。彼女の何が変わったのでしょう。

 

ここで興味深いサブタイトルがあります。それが15話の「ヘンシン」です。15話で七咲は味噌ラーメンに変身するわけですが、それはひとまずおいて、七咲編において変身と言えばそのひとつ前の回、14話でのイナゴマスクへの変身ベルトがまず思い出されます。

 

変身ベルトは、もともと弟(郁夫)へプレゼントするつもりのものでした。それが突っ返されたので、七咲は今度はこれを橘君に贈ろうとする。ところがさらにもうひと捻りがあって、最終的にそれを身につけ、変身するのは七咲の方です。これは非常に重要なところなので細かく見ていきましょう。

 

まずは表面的なところから。七咲はこのところ弟とうまくいっておらず、変身ベルトは関係の改善をはかったお詫びのプレゼントでした。しかしこのベルトは去年のものだった。これは最近、七咲と弟のコミュニケーションが希薄であったことを裏書きしています。それと同時に、七咲の焼く世話が、実は相手をちゃんと見ていない、身勝手なものになる場合があることも示唆されています。弟はこの贈り物を拒みます。橘君の見立てによれば、郁夫は姉に構ってほしくてわがままを言っていたわけで、そこでおざなりな(と彼からは見える)プレゼントをもらっても逆効果でしょう。想像するしかありませんが、結構なひと悶着があったかもしれません。ともかくベルトは拒絶された。すると七咲は、このベルトを今度は橘君に贈ろうとします。「先輩なら喜んでくれるかと思いまして」と見込んでのことですが、しかしこれも空回りします。視聴者にも事情はわかりませんが、橘君もベルトを受け取ろうとはしません。

 

13話(1話目)の七咲は、橘君との関わり方こそアレでしたが、水泳部期待の一年であり、家事もし、ボランティア活動なんかもにおわせ、橘君も思わず「七咲はすごいよなあ」と言ってしまう、年下ながらすごくしっかりした、大人びた女の子として描かれます。しかし14話では、数学で赤点をとったり、弟と少しうまくいってなかったり、また後でわかる話ですが水泳でもタイムに伸び悩むなど、その全方位的な頑張りにかなり無理が出ていることがわかる。変身ベルトの件はそれを最もよく表しているエピソードでしょう。

 

さて、ベルトの件はもう少し象徴的な面からも見てみたいと思います。なぜ贈り物は変身ベルトだったのか。変身ベルトというは、もちろん、『変身』するためのものです。七咲は、言ってみれば、弟を『変身』させようとした。そしてまたこのベルトは去年のものでした。つまり七咲は『弟を去年の姿(まだ仲の良かったころの姿)に変身させようとした』と、そのように言ってみることができます。しかし相手の側に変化を促すのは、関係修復の手段としてあまりいい手ではないでしょう。実際に失敗します。すると今度は、弟の代わりとして橘君を『変身』させようとします。七咲はもともと、橘を弟と同じジャンルの人間と捉えている節がありましたが、それを強化しようとする。しかし橘君も、七咲に世話を焼かれること自体に不服はないでしょうが、『弟の代わりになれ』というこれはさすがに拒みます。そして最終的に、七咲は橘に手を引かれて自分が『変身』することになる。何に変身するかといえば、これは『子供』でしょう。家事をし、部活やボランティアをし、弟の面倒を見てきた庇護者としての七咲が、ここで、指導され、遊んでもらい、庇護される子供に変身する。

 

ところで、思い出して欲しいのですが、アマガミSSの各サブタイトルはメインタイトルになぞらえてカタカナ4文字の表記となっています。だから『ヘンシン』も実は『変身』とは限らない、少なくともその一義に縛られてはいないのです。ではなにかというと、これは『変心』、つまり心変わりでしょう。この変身イベントのあと、七咲は弟にあまり気を掛けなくなります。例えば直後の遊園地の件では『弟は風邪をひいたから』と嘘をついて弟をのけ者にする。いや、嘘とは断定できなくて、郁夫は本当に風邪なのかもしれない。しかし、そうだとしても「でも今日は母が家で看てくれているので、大丈夫だと思います」「せっかくの遊園地なんですから思いっきり楽しまないと」という七咲の声は終始明るく、そこに心配の色は見えません。そして以降、弟の話題は出なくなる。七咲の『姉』としての側面は、14話のあとはすっぱり切り落とされてしまいます。

 

まるで人が変わったように、とまで言うとレトリックが過ぎますが、七咲の『変身』が同時に変心でもあるというのは外していなかろうと思います。

 

 * * * * * *

 

……さて、ここまで重要な点から目を背けたまま進めてきました。改めてサブタイトルを見てみましょう。そうです。そもそも『ヘンシン』のサブタイトルは、七咲がイナゴマスクに変身した14話ではなく、15話のものなのです。

 

イナゴマスクへの『変身ごっこ』にこれだけ拘ってしまった以上、15話における正真正銘の『変身』を無視するわけにはいきません。我々は味噌ラーメンから逃げてはいけない。とはいえヘンシンの意味が分かっている今なら、味噌ラーメンを読み解くことも難しくはないでしょう。変身が変心に通ずることは既に話しました。ではこのときも、七咲は変身によって変心した。『何か』から橘君へと心を移した、ということです。

 

そしてその答えは、直後に七咲自身の口から示されています。遊園地からの帰り、公園で缶コーヒーを飲んでいるときのセリフです。「実は私、最近部活でタイムが伸びなくて。少しストレスがたまってたんです。でもすっきりしました」これは文字通りに受け取ると『いい気分転換になった』ということですが、変身の意味がわかっているいまなら、そうではないことがわかります。七咲の中で、部活の優先度が下がったのです。それを裏書きするように、結局この年の七咲はタイムを縮められず、大会には出られませんでした。

 

『変身』したのが食べ物だったことは、まあその、橘君と「食べる」「食べられる」の関係を意識し始める切っ掛けということなんでしょう。それがどうして味噌ラーメンだったのかは未解決ですが、まあ水泳部が創設祭でおでんを出しているので、一応それとの対応と考えられなくもありません。苦しいかな。

 

 * * * * * *

 

さて、これで七咲編の事がおおよそ分かったと言えるのではないでしょうか。家事に部活にと頑張ってきたものの、勉強や人間関係など無理が出てきていた七咲さんは、橘君と出会って、段階的にそれらから解放されていく。そしてその解放を象徴するのが、あの変身=変心のシーンだったのです。

 

 * * * * * *

 

 ……と、これで話を結べればよかったのだけれど、そうはいかないのだ。

 

 絢辻さんがいるからです。

 

 アマガミSSをご覧になった方はご存知の通り、14話には絢辻さんと七咲が図書館で対峙するシーンがあります。このときふたりの間には謎の緊張が発生します。しかもその理由はまったく明かされない。それだけではありません。なぜ創設際で、七咲と橘君がふたりきりでおでん屋台を切り盛りしているのか。なぜ覗きをした橘君がああも簡単に水泳部に許されている感じになっているのか。そもそも何で七咲は、最初に自分からスカートをめくったのか。

 

 やっぱり私たちは七咲についてまだまだ何も知らないに等しいのです。

 

 ではまた次回、『七咲逢について考えていること 2 /僕たちの知らない七咲 』でお会いしましょう。

 

(掲載時期は未定です)

 

アスカニオと誤訳

いつのまにかMagic of Ascanio英語版1~4、ならびに日本語版1がまた手に入るようになっていることに気付きました。めでたいですね。そういうわけで思い立ったので書きます。

 

といっても日本語版に誤訳があるとかないとかこんな訳文は許せねえまたAさんが死んだとかそういう話ではないです。日本語版はそもそも読んでおりませんので、出来については何もわかりません。ではなにかというと、英語版を読んでいるときに「これ誤訳かな」と思った箇所があり、あとで確かめたら誤訳というほどのものではないものの、違和感そのものは正しかったということがありました。その違和感というのが、意味が通っていないとか言い回しがひっかかるというのとは違う珍しいパターンだったので、ここで紹介したいと思います。

 

アスカニオの用語にカバーとプレゼンテーションというものがあります。理論の中身には踏み込みませんけれども、簡単にいうとこれは対になった概念で、それぞれ『見せたくないものを見せないための手段(カバー)』『見せたいものを見せるための手段(プレゼンテーション)』といったところでしょう。英語ではcoverとpresentationです。

 

……違和感がありませんか?

 

対になる概念として、単語の長さというか音節の数というかが明らかに不釣り合いです。日本語なら攻守とか外見と内面というように語数がそろいます。英語だとまたちょっと事情も違ってくるかもですが、いずれにせよアンバランス感はぬぐえません。

 

で、スペイン語版を見ましたらばCoberturaとPresentaciónとなっていて、あーこれならまあ、coverとpresentationよりはバランス的に納得がいきます。とはいえほぼ一意に対応する語があるので、coverとpresentation以外には訳しようがねえよなあ。仕方ないパターンですね。

 

おまけ:タマリッツと誤訳

 

これも誤訳ってほどではないかもしれませんが、スペインつながりで紹介します。さっきいろいろ書いたけれども、これは英語版を読んだときはさっぱり気付きませんでした。

 

タマリッツの著作にThe Magic Wayという有名なものがあり、ちょっと前に再版しました。副題というかロングバージョンのタイトルがあって、The Method of False Solutions and The Magic Wayとなっています。なんですが、原文を見るとEl método de las pistas falsas y la vía mágicaなんですね。

 

どの語も英西で語源が一緒らしく、スペイン語わからなくてもなんとなく意味はとれます。ところがひとつ違って見える単語があって、それがpistaです。もちろん語源を共有していない同じ意味の単語というものもありますが、試しにpistaで辞書を引くと『ヒント』や『手がかり』と出てきます。

 

――となると、タマリッツの論旨がだいぶ違ってはこないでしょうか。

 

この本でタマリッツが説く理論のキーワードFalse Solutionsを、私は『間違った解決策』と考えていましたけれど、Pistas Falsasなら『間違った手がかり』だったのではないか。最終的に目指すところが同じとは言え、この二つの語は意味するところがだいぶ異なります。

 

といっても、スペイン語版の中身は読んでませんから、実際のニュアンスとしてはsolutionで正しい訳なのかもしれませんけれども。

 

※イタリア語版もFalse Soluzioniとなっちゃってますな。

桜井梨穂子について考えていること

 2019年の冬は桜井梨穂子のスキ・ルートを進めている。これを書き始めたのは2019年の12月10日で、12月25日に向けて徐々に書きあがっていき、年内に完成する予定である。そうであればいいなあと思っている。

 

 最初に結論を書いておく。もしアニメのアマガミしか見たことがないのなら、是非ともゲーム版のアマガミをやってほしい。特に桜井梨穂子中多紗江については。できればネタバレ無しで彼女らの魅力を伝えたかったのだけれど、筆者の力不足ゆえにそうはなっていない。だから、いますぐブラウザを閉じてゲーム版アマガミをやって欲しい、というのが本音ではある。まあいずれにせよ――、

 

 アニメ・アマガミSSにおいて、中多紗江と同じくらい不遇をかこったヒロインが桜井梨穂子だ。中多さんが謎のナレーション芸でコメディになってしまった一方、梨穂子は橘君に代わって主観人物に据えられたがため、彼女自身の内心をあまり持てなくなった。それに伴って彼女の恋模様も、彼女自身のパーソナルなものではなく、茶道部の行く末という周辺的な問題とその解決によって表されるものになってしまったんである。もちろん6人ものヒロインをほとんど同じ時間・空間のスケールで描かざるを得ない以上、描写の仕方にバリエーションをつける必要はあるのだけれど、その中でも特にこの二人が大きな改変の対象になったのは偶然ではない。アニメ・アマガミSSでは原作アマガミが良くも悪くもアク抜きされているのだが、まさにこのふたり、桜井梨穂子中多紗江は、そのアクの部分こそが、ゲーム版のキャラクタ・ストーリーの根幹にあるのだ。

 

 ゲーム・アマガミはシステムもキャラクタも非常に真摯に作られており、それゆえちょっと(かなり)人が悪い面がある。アマガミは複数のヒロインが同じ時間・空間に存在していることに自覚的であり、だから表ではたいへん願望充足的な甘いラブコメを展開しながらも、たとえばその裏で、攻略対象として選ばず疎遠になったヒロインたちがいま何をしているかを見ることができる。そこで彼女たちは(当たり前ではあるのだが)彼女たちの青春を別のかたちで存分に謳歌しており、プレイヤーは難攻不落で有名だった高嶺の花の先輩が、さっぱり良さのわからない一年生の男子と付き合い始めるところや、後輩の水泳部女子が一年生ながら大会メンバーに選ばれている(彼女とのルートではスランプで代表落ちしていたのに!)ところを目撃することになる。

 こういった真摯さはキャラクター造形に関しても同様で、表向きは分かりやすいキャラ付けのされたヒロインたちは、その裏に何か生々しいものを秘めており、ふとした瞬間にそれが噴出する。たとえば悪友、棚町薫だ。飄々として、でも友人思いで、気遣いもできて、ヒロインの中でいちばん成熟している彼女ではあるのだけれど、しかしデートで遊園地に行ったとき、着ぐるみのマスコットが池に落ちて溺れ藻掻いているのを見て大笑いする。もちろん彼女はそれが演出であると信じ切っているのであり、本当に事故と分かっていればそんな対応は絶対にしないだろう。それでも僕は、僕らは、そのシーンの薫の振る舞いにちょっと距離を感じてしまう。また二股状態でヒロインがカチ合ってしまうイベントや、ヒロインと敵対してしまうイベントもあり、そこでの彼女らの立ち居振る舞いは、伝え聞くだけでも心に悪い(発生させるのが物理的にも心理的にも難しいので私はほとんど見ておらず、ほぼ伝聞でしかないのが)。

 こういったアクの部分が取り除かれているので、アマガミSS棚町薫は非の打ち所がないできたヒロインだ。でもアクの部分こそが、キャラクタの根幹、ストーリーの要点にある場合はどうすればいいのだろう。中多紗江桜井梨穂子の場合が、まさにそうなのだ。

 

 中多紗江は下級生で、引っ込み思案で、異性慣れしておらず、箱入り娘で、夢見がちで、とソレっぽい要素をこれでもかと詰め込んだキャラである。いや、少なくとも最初はそうなのだが、ゲームでの彼女はすぐに恐ろしいまでの積極性を発揮して、主人公にぐいぐいと迫ってくる。しかもタチの悪いことに、プレイヤーにはそれが彼女の勘違いに過ぎないことがはっきりとわかるのだ。頬を上気させ、目を潤ませてじっと見つめてくる彼女が、実際には理想の王子様を妄想し、それを橘君に投影しているだけということが手に取るようにわかる。だから彼女からの熱烈なアプローチをただ楽しむことはできなくて、いや冷静になれ、君はのぼせ上がっているだけだ、橘くんはそんないい男ではないぞという気持ちがどうしても湧いてくる。

 このパートの橘君はとりわけ優柔不断で、及び腰で、酷い男のように描写される。だからプレイヤーの中多さんに対する心配はいや増すのだが、これはよくできた脚本だ。橘君は恋愛にトラウマがあり、「今年こそは」と一念発起したとは言え、他者から迫られることには全く慣れていない。だから中多さんからの過分な好意に大いに当惑している。しかし彼のコンプレックスや当惑をプレイヤーがそのまま共有するのは難しい。そこであえて橘君の駄目な側面を強調し、中多さんの恋心に対するプレイヤーの不安を煽る。方向性は違えど、ここで橘君の当惑と、プレイヤーの当惑とがシンクロするのだ。こんなにも迫られるのは不安だ、この恋は危うい、なんなら間違っているという思いがシンクロする。彼女の好意につけ込んでいるような罪悪感、このまま付き合ってもすぐに幻滅されるだろうという不安が共有される。見事な仕掛けである。

 ……もちろん誰だって、相手の『本当の姿』を知ることは出来ないし、大人ぶって相手の気持ちを嘘だと決めつけるのだって傲慢だ。お互いが相手の『虚像』を見ていることを受け止めて、それを乗り越えていくだけの覚悟を持てるかどうかが、中多さんスキ・ルートのテーマだ。ぜひプレイして、BESTエンディングを見てほしい。

 

 では桜井梨穂子はどうだろうか。彼女は主人公の橘君にずっと思いを寄せてる幼馴染であり、これもまた一見すると非常に類型的なキャラ付けである。そして中盤までの梨穂子は、テンプレート通りのほんわか幼なじみキャラであり続ける。

 しかし彼女も、不意にそのレールを外れるのだ。その契機となるのが、橘君が痴漢冤罪(的なこと)で女子に囲まれ糾弾されているのを救う場面である。これまでのノホホンとしたキャラからは想像もできないのだが、梨穂子は果敢にも女子グループに割って入り、辛抱強く誤解を紐解き、なんと誰も悪者にせず場を納めて、橘君を救ってしまう。

 おいおい、梨穂子、おまえはそんなに頭が良かったのか? そんなに機転が利き、社会性があったのか? 早道しようとして金網の穴にひっかかり、「あなたが助けてくれなかったらあそこで一生を終えるところだったよ~~」なんて言っていたおまえが? 梨穂子の新たな一面に、プレイヤーはなんだか落ち着かない気分になってくる。僕が梨穂子を守るのであって、その逆じゃないはずだぞと。さらに追い打ちを掛けるように、橘君が「昔もこんなことがあったな」と梯子を外してくる。この出来事にかくも当惑しているのは、プレイヤーだけなのだ。

 これまで橘君は、梨穂子からどんなに好意を向けられても「でも梨穂子は幼なじみだから」とまともに取り合おうとしなかった。プレイヤーにはそれがもどかしかったし、なんなら理解不能だとすら思っていた。けれどプレイヤーもまた、梨穂子を単なる『幼なじみキャラ』の枠で見ていたし、彼女がその枠から外れそうになったときに拒否反応を憶えてしまうことが、このイベントで突きつけられる。梨穂子をまともに取り合っていないのはプレイヤーも同じだったのだ。

 このイベントと前後して、梨穂子はこれまでの彼女の『キャラ』にとらわれない色々な姿を見せるようになる。これは梨穂子の側の変化ももちろんあるが、それ以上に、橘君の認識の変化を反映しているのだろう。彼が頑なに抱いていた『幼なじみ』という枠がとうとう緩んだことで、突如として、これまで見えていなかった彼女のいろいろなディテールが目に飛び込んでくる。それをプレイヤーも体験しているのだ。

 梨穂子編は橘君が『幼なじみ』をひとりの女性として捉え直す話であり、同時にプレイヤーが『キャラ』をひとりの女性として捉え直す話でもあるのだ。

 

 これらがゲーム版アマガミ桜井梨穂子中多紗江のキャラクターのあらましだ。アニメ・アマガミSSとはひと味もふた味も違うことが分かってもらえただろうか。どちらが正解というものではないが、よければゲーム版をプレイして、彼女たちの違った一面も見てもらえたらと思う。さらにゲーム版アマガミにはまだいくつものルートがあり、それぞれがキャラクターの別の側面に光を当てる。かくいう私も見てないルートやイベントがまだまだ沢山あるので、これからもっと深く、彼女たちのことを知っていけたらと思う。

ガルパン劇場版感想――プラウダ撤退

 ガールズ&パンツァー劇場版のプラウダ撤退のシーンがとても好きだ。初見時は(なぜこんなシリアス調に?)というツッコミ心が勝って没入できなかったのだけれど*1、2回目以降の視聴ではこのシーンで必ず泣いている。レトリックではなくマジで泣いている。

 あの撤退戦でプラウダは殿(しんがり)をつとめていて、中でもカチューシャは最後尾で粘る。それは最も危険な位置で、けれど彼女は誰かをトカゲの尻尾にしようとかいったことをしない。対大洗戦では(数の利があったとはいえ)あれだけ捨て石を使っていたのにだ。

 ひまわりの副隊長である彼女は、自分が最後尾にいることがいちばん目的に叶うと判断してそうしている。自分ならやり通せるという思い上がりや*2プラウダ隊長としての矜持もあったろう*3。しかしそれ以上に、最悪自分が脱落しても構わないと考えていたのではないか。指揮官ならみほがいるし、なによりダージリンがいる。エキシビジョン戦で楯になったことからもわかるように、カチューシャは自陣の勝利のためなら自らが捨て石になることを厭わないし、またダージリンの能力を高く買ってもいる。いまこの局面で、彼女にとってはひとりでも多くのプラウダ勢を撤退させることの方が大事だったのだ。そのほうがよりチームの勝利に貢献できると判断した。自分の代わりは居るが、隊員達はそうではない。彼女にとって、『プラウダ』とは『隊員の強さ』だった。

 でも、プラウダの他のみんなにとってはそうじゃなかったのだ。『プラウダ』とは『隊長の強さ』で、それは隊長以外のみんなにとっては自明のことだった。だから彼女たちは、敬愛する隊長の指示に背いてでもこれを表明しなければならなかった。

 あのシーンは、だから、とても僕の胸を打つ。

 カチューシャが「雪は黒い」と言えば、ためらいなく「黒い」と答える彼女たちが、それでもこの一点だけは譲ることができなかったのだ。そうしてカチューシャは隊員たちを、彼女にとっての『プラウダ』を失う。けれど、ほんとうの『プラウダ』は失われてなんていない。ダージリンも言っている。「まだあなたがいる」。そしてカチューシャは隊員たちの見立て通り(若干のもたつきはあったけれども)、素晴らしい指揮力を発揮する。単騎行動へ移った西住姉妹や、退場したダージリンに代わってその隊員たちをまとめあげ、大洗を勝利へと導くのだった。

 

*2018/04/10 ちょっとだけ修正。

*1:なおこの撤退シーンがやたらとシリアスになった一因としては、クラーラの日本語語彙が(堪能ではあるものの)極めて限定されたものだったのではという仮説がある。これは『日本人の知らない日本語』というコミック・エッセイで、任侠映画で日本語を覚えたやたら剣呑な語彙のフランス人がいたことから着想を得た。

*2:見てごらんなさい! 私には当たらないわよ!

*3:逃げるなんて隊長じゃないわ!